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2025年8月2日土曜日

第5回 行政法上の法律関係

 権利主体相互間に生ずる法律上の関係を、法律関係という。このように定義づけたとき、「行政法関係」とは、行政法によって規律される法律関係のことである。行政法上の法律関係ともいう。ここで再び、公法と私法との区別が問題となる。まず、公法と私法との区別を前提にして、議論を進める(なお、両者の区別は相対的であるというのが一般的である)。

 行政上の法律関係という場合、公法関係と私法関係とが存在することが基礎となっている。私法関係が私人相互間の関係におけるものと同一の規律による支配を受ける関係であり、これが一般的であるとするならば、公法関係は特殊なものである。そして、公法関係は権力関係と管理関係とからなる。

 (1)公権論

 国や地方公共団体と私人との間に権利が存在する(憲法における基本的人権は、まさにこの類のものである)。この権利を公権という場合もあるが、普通、公権は私法上の権利(私権)と異なるものという意味において用いられる。

 代表的な見解によれば、公権とは「公法関係において、直接自己のために一定の利益を主張しうべき法律上の力をいう」〈田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1976年、弘文堂)24頁〉。私人が自らの利益として主張しうる点において、「法が単に国又は個人の作為・不作為を規定していることの結果として生ずる反射的利益」とは区別される〈田中・前掲書84頁〉。国家的な公権として、警察権、課税権、統制権などがあげられ、個人的な公権として、参政権、受益権、自由権、平等権があげられる。以上は基本的人権と類似する分類であり、受益権は行政訴訟を提起する権利、生活保護請求権などを含む。

 公権は、公益上の見地から与えられるものとされる。そのため、公権が有する特色として、相対性(絶対不可侵性を有しない)、放棄不能性(不行使は自由であるが、放棄することはできない)、専属性(他人に移転したり、その権利を差し押さえたりすることは許されない)があげられる。

 しかし、この公権論は、現在、それほど強力に主張されている訳ではない。第一に、公法・私法二分論の妥当性に対する疑問があげられる。第二に、公権に独自性を認めがたい。例えば、相対性は、土地所有権などの私権にも見られる。専属性というのであれば、親権や夫婦間の権利にも認められなければならない(認められないとしたら訳のわからないことになる)。第三に、その内容が豊かでないことがあげられる。手続法上の権利(申請、聴聞、文書閲覧などに関する)なども、現在においては認められる傾向にあるし、認められなければならない。

 (2)権力関係と管理関係

 公法関係は権力関係と管理関係とからなることは前述した。ここで両者について説明する。

 権力関係(支配関係ともいう)は、国または公共団体が、法律上、優越的な意思の主体となって相手方たる私人に対するものであり、本来的な公法関係とも称される。行政行為などに見られる。「公権力の行使」とは、行政庁が私人に対して、法律に基づいて一方的に計画し、命令し、給付し、一定の法律関係を形成し、指導し、強制する活動の総称である。個別的な行政法規に、根拠規定を必要とする。行為規範を欠く場合、あるいは行為規範に違反する公権力の行使は、違法であって、効力を生じないのが原則である。

 或る行政作用が公権力の行使にあたるか否かの判定は、公権力の行使については、実体法上「法の規則」が強く要請される(行政行為論の中心的課題)、公権力の行使は、手続法上「行政手続」の要請に応ずるものであることを要する、公権力の行使は、「抗告争訟」(抗告訴訟、行政不服申立てなど)の対象となる、という三点と関連する。

 管理関係は、伝来的な公法関係とも称され、国または公共団体が公的事業または公的財産の管理主体として私人に対する場合を指す。この場合、私法関係に類似するが、公共の福祉との関係上、私法関係と異なる法的規律に服する。行政作用法において、民商法に見られない特例が多く設けられる他、行政救済法において、行政事件訴訟法第4条・第39条以下に定められる当事者訴訟が用意されている(もっとも、あまり活用されていない)。

 一応は上記のように説明できるが、先にも触れたように、権力関係だから民法の適用が排除されるという訳でもなく、管理関係だから民法の適用が排除されないという訳でもない。

 (3)特別権力関係論

 租税関係など、国民一般が国や地方公共団体の権力に服する関係が存在する。これが一般権力関係である。これを前提とするならば、特別権力関係とは、特別の公法上の原因(法律の規定または本人の同意)によって成立する、公権力と国民との特別の法律関係をいう。特別権力関係の理論は、公務員の勤務関係、国公立大学の在学関係、在監関係など、性質の異なる法律関係を、或る国民が公権力に服従するという関係として捉えている(それがそもそも問題である)。

 特別権力関係の中身として、公権力は包括的支配権(例、命令権、懲戒権)を有するから、個々の場合には法律の根拠がなくとも私人を包括的に支配できる(ここから、法治主義の排除ということが導かれる)、公権力は、私人に対し、一般国民として有する人権を制限できる、この関係の内部における公権力の行為は原則として裁判所の審査に服さない、と主張された。

 しかし、日本国憲法の下で、「特別権力関係」論はそのままで維持されえない。日本国憲法の下、実務上は修正された特別権力関係理論が維持されているが、最高裁判例は、行政事件訴訟の限界という観点から、特別権力関係を体系的かつ包括的に措定していない。むしろ、一般的外部関係に対する意味での個別的内部関係ないし部分社会的関係の存在を肯定しているにすぎないように見える(もっとも、特別権力関係を完全に否定しているとも言えない)。こうしてみると、「特殊自律的内部関係」は、公法私法の区別と無関係に、学校や宗教団体などの内部における自治自律的関係ないし専門的技術的関係から、一般社会の外部的関係と区別されて取り扱われるものであることになろう。

 ●公務員の人権

 国家公務員の政治活動の自由は、国家公務員法第102条および人事院規則14-7により制限されている。また、公務員・国営企業職員は、労働基本権が制限される(国家公務員法第98条第2項、地方公務員法第37条、国営企業労働関係法第17条など)。具体的には、警察職員・消防職員・自衛隊員・海上保安庁・監獄に勤務する者には、労働基本権全て(団結権・団体交渉権・争議権)が否定される。非現業の一般公務員には、団体交渉権と争議権が否定される。郵便などの現業の公務員には、争議権が否定される。

 初期の判例は、「公共の福祉」および「全体の奉仕者」を理由として、簡単にこれらの制限を合憲としていた(特別権力関係論の影響であろう)。最大判昭和41年10月26日刑集20巻8号901頁(全逓東京中郵事件)は、公務員の労働基本権を尊重する立場を採った。この流れは、最大判昭和44年4月2日刑集23巻5号305頁(都教組事件)にも受け継がれた(合憲限定解釈を用いた)が、最大判昭和48年4月25日刑集27巻4号547頁(全農林警職法事件)によって再度転換された。この判決は、一律かつ全面的な制限を合憲とした。また、公務員の政治活動の自由に対する制限については、最大判昭和49年11月6日刑集28巻9号393頁(猿払事件)がある。

 しかし、公務員の人権は、法律や条例により、勤務条件(俸給など)が詳細に規定されている。労働基本権の制約についても、法律の規定に基づいているのであり、特別権力関係によって説明する必要はないと思われる(特別権力関係理論の影響を否定しえないとしても)。

 もっとも、最大判昭和29年9月15日民集8巻9号1606頁、および最二小判昭和32年5月10日民集11巻5号699頁※は、公務員の勤務関係が特別権力関係であることを肯定する。その上で、このような関係の下で懲戒処分や専従休暇不承認処分を、司法権審査が及ぶものとした。その条件として、裁量者による処分が事実無根かあるいは著しい濫用と認められるとき、法的統制の実効性を保障する必要があるとき、としている。

 前掲最大判昭和29年9月15日および最二小判昭和32年5月10日は、公務員の懲戒処分と裁量審査との関係におけるリーディングケースでもある。最三小判昭和52年12月20日民集31巻7号1101頁(Ⅰ―80。私が解説を担当している)も参照されたい。

 ●在監関係

 在監関係についても、憲法第18条および第31条により在監者にも基本的人権が保障される以上、特別権力関係がそのまま妥当すると考えるべきではない。しかし、在監者に基本的人権が全て保障されるという考え方は、常識にも反するし、懲役などの目的などとも矛盾する。在監者の基本的人権を制限する目的は、拘禁と戒護(逃亡・証拠隠滅・暴行や殺傷の禁止・規律維持など)そして受刑者の矯正教化ということを達成するためにあるから、その範囲における必要最小限度の制限が必要である。

 この点に関して、最大判昭和45年9月16日民集24巻10号1410頁は、喫煙の禁止を定めた監獄法施行規則第96条の法律上の根拠が問題となった事案に対し、監獄法施行規則第96条を憲法違反でないとしたが、このような制限は法律で定めるべきであるという批判が強い。

 「よど号」ハイジャック記事抹消事件最高裁判決(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁)は、監獄内における規律・秩序が放置できない程度に害される「相当の具体的蓋然性」が予見される限りにおいてのみ、監獄長による新聞記事抹消処分が許されるとの基準を示したが、その判断について監獄長の裁量判断を尊重している点には問題もある。その他、監獄法第50条・同法施行規則第130条による「信書の検閲」は憲法第21条に違反しないとする判決もある(最一小判平成6年10月27日判時1513号91頁)。

 ●地方議会の内部規律

 自律的な法規範をもつ社会ないし団体において当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せるのを良とし、裁判によって判断するのを適当としない事柄が存在する。最大判昭和35年10月19日民集14巻12号2633頁(Ⅱ―152)は、こうした見地から、地方議会議員に対する出席停止という懲罰議決は司法審査の対象外とした。なお、除名の場合は、議員身分の喪失(ある意味で一般社会との外部的関係である)に関する重大事項として司法審査が及ぶとする。

 ●大学と学生との関係  国公立・私立を問わず、学校は学生の教育という特殊な目的を有する。よって学校は一般市民社会と異なる部分社会である。そのため、その目的の達成に必要な限度内において(法令がなくとも)学校側に包括的支配権が認められ、教育的裁量が認められることについて異論はない。また、私立学校の利用関係は私法上の契約関係であることは、争いのないところであろう。国公立大学については、特別権力関係と解するのが通説である。これは、国立または公立大学が営造物(公共施設)であることからみれば、例外であることになる。最大判昭和29年7月30日民集8巻7号1501頁、最小三判昭和52年3月15日民集31巻2号234頁(Ⅱ―145)は、単なる単位認定が司法審査の対象外であり、一般市民秩序と直接の関係を認められる特段の事情があるときのみ、司法審査が及ぶとする(懲戒処分についても同様)。


 ▲第7版における履歴:2020年4月30日掲載。

 ▲第6版における履歴:2015年11月11日掲載。2017年10月26日修正。 2017年12月20日修正。

2025年8月1日金曜日

第3回 憲法と行政法

  1.憲法を具体化するものとしての行政法という理念

 行政法の成文法源とされるものは、憲法、条約、法律、命令、条例、地方公共団体の長の規則である。このうち、憲法は国家の基本的な法であり、かつ、最高法規であるため、行政法の法源としても最高の地位を占めるものである。そればかりでなく、少なくとも立憲主義の理念に即して考えるならば、「行政および行政法は本質的にその時代の憲法によって決定される」のであり、行政法は憲法を具体化するものでなければならないのである。

 引用は、Hartmut Maurer / Christian Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrecht, 19. Auflage, 2017, §2 Rn.1からのもので、私が訳した(下線部は、原文における斜体字による強調箇所である)。行政法が憲法を具体化するものでなければならないということは、ドイツ連邦行政裁判所長官であったヴェルナー(Fritz Werner)の論文「具体化された憲法としての行政法」(Verwaltungsrecht als konkretisiertes Verfassungsrecht, DVBl. 1959, 527)によって述べられ、ドイツでは一般的に承認されている。


 2.国民主権の原理

 日本国憲法は、前文および第1条において国民主権原理を明示する。これを具現化するために、例えば権力分立主義が採用されるのである。また、国民主権原理を実現するためには、主権者たる国民の全体に、国の情報、端的に言えば政府が保有する情報が共有され、少なくとも常に入手が可能な状態になっていなければならないはずである。

 後の回において詳しく述べたいが、日本の憲法学や行政法学における情報公開請求権に関する議論は、国民原理主義の具体化という側面においてあまりに不十分である。櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕(2006年、有斐閣)14頁の記述も、情報提供に留まっている。理念であるとしたらあまりに不十分であろう。その点において、山崎正『住民自治と行政改革』(2000年、勁草書房)56頁注(4)および132頁の記述は示唆に富む。拙稿「大分県における情報公開(1)―大分地方裁判所平成12年4月3日判決の評釈を中心に―」大分大学教育福祉科学部研究紀要第22巻第2号(2000年)427頁を参照。なお、櫻井敬子・橋本博之『行政法』〔第6版〕(2019年、弘文堂)230頁を参照。

 国民主権原理については、既に憲法学の講義などにおいて扱われているはずである。以下、憲法の復習を兼ねるという意味合いを込め、重複することを承知の上で説明を行う。

 国民主権と民主主義とは、一般的に同義の言葉として扱われる。しかし、国民主権は法律学的な概念であり、主権の所在を示すものであるのに対し、民主主義は、政治の在り方についての政治思想的な概念である。但し、国民主権は、民主主義の中に含まれると解することもできる橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(有斐閣、1988年)85頁を参照

 民主主義は、個人の尊厳を最高の価値とする。そのため、国家における「支配者と被支配者との自同性(Identität)」が要求されることになる。これが実現されなければ、国民主権の意味がないということになる。

 国民、主権のいずれも、一般的に理解しうる語であり、日本国憲法においても用いられる。しかし、実際には、条文により意味を異にする。この点に注意しなければならない。国民主権という場合の主権は、国の最高の意思、国の政治の在り方を最終的に決定する権力、換言すれば最高決定権を意味する。日本国憲法は、このような最高決定権を国民が行使するということを宣言しているのである。

 ※櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕15頁は「憲法のいう国民主権は、第一義的には、国政の運営が国民の名において行われることを意味」すると述べているが、これは説明としても弱く、理念に関する説明として十分なものとは言えない。

 最高決定権は、憲法の制定や改正に関して、その力を最大限に発揮すべきものとされている、と考えることができる。国民主権は、元々、憲法制定権力が国民に帰属することを意味する。憲法制定権力の発動により実定憲法が制定されると、合法性の原理となり、制度化された上で、権力性と正当性とに分解することとなる。ここで、国民主権の権力性とは、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使する、ということを意味する。また、国民主権の正当性とは、国家の権力行使を正当づける究極的な権威が国民に存する、ということを意味する。

 ここまで、国民主権原理について解説を行ってきたが、日本国憲法の前文において述べられているように、第15条第1項、第79条第2項、第95条および第96条の場合を除き、常に国民が直接的に国政に関する権限を行使することが予定されているのではなく、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」することが前提とされている。すなわち、直接民主制ではなく、間接民主制(議会民主制)が基本原則となっているのである。

 もっとも、憲法の諸規定の解釈、そして歴史などをみれば明らかであるように、元々、国民主権原理は君主主権への対抗概念であると同時に、近代立憲国家においては市民階級の利益を維持するための機能を有していた。国民とは言うが、基本的に有産階級に限定されていたのである。その後、労働者階級の台頭などにより、文字通り国民全体(とくに貧困者層)の生存権を確保することが国家の命題となり、当初は治安対策の一環として社会保障などを充実させるなど、労働問題に取り組まざるをえなくなると、同質の市民のみを代表する議会による対処などが困難になり、行政権の拡大につながることになる。或る意味において、国民主権原理と現実との乖離はこの時点から始まったとも言える。

 また、日本の場合、イギリスやフランスなどと異なり、元々市民階級が存在せずあるいは士農工商のうちの商人階級が市民階級に相当すると考えることもできるが、おそらくは違うものであろう、明治維新も武士階級による王政復古であったため、市民あるいは商人の政治力は強化されなかった。イギリスやフランスなどにおいては議会の権限が強かったが、大日本帝国憲法は、天皇の権限を非常に強大なものとしており、その下で、議会に比して行政権の範囲は当初から広かった。そもそも、大日本帝国憲法が権力分立主義を採用すると言っても、三権は結局のところ天皇に帰属していた。議会の立法権は制約されていたし、天皇は別に立法権を有していた。しかも、帝国議会成立以前から超然内閣制(内閣制度そのものが憲法上の制度でなかったことに注意!)が存在し、当初から議会が官僚制に対抗しうるほどの力を持っていたかどうかは疑わしい。日本国憲法制定以後も、官僚制の実力はほとんど影響を受けず、むしろ拡大している。日本においては、元々、国民主権原理と現実との乖離が激しくなる要因が存在していたのである。これが社会の発展、そして国民主権原理の普及とともに強く自覚されるようになったと考えられるであろう。

 日本国憲法および地方自治法においては、元々、国政よりも地方自治の側面において直接民主制的な要素が多く盛り込まれている(地方自治法第12条、第13条および第74条以下を参照)。地方公共団体の長などに対する解職請求(リコール、国民罷免)、条例改廃請求権(イニシアティヴ、国民発案)、そして、原子力発電所設置や市町村合併などの重要問題において行われる住民投票制度(レファレンダム、国民表決)が行われるのは、単に直接民主制の現われというだけでなく、国民主権原理の具現化としての意味をも有する。

 但し、現在の法制度において、国民投票や住民投票は、憲法改正を除き、投票の結果が立法者を拘束することが予定されていない。これは、イニシアティヴについても妥当する。理由としては、憲法自体が議会制民主主義を原則としており、直接民主制はむしろ例外的に位置づけられることがあげられる(例外と記すと誤りになるのかもしれないが)。


 3.権力分立主義

 論理的な帰結というよりは歴史的・経験的な事実による帰納的現象に属することとも思われるが、国民主権原理を生かすためには、第一に権力分立主義が採用されていなければならない。この権力分立主義も既に憲法学の講義などにおいて扱われているはずであるが、ここで述べておくこととする。

 日本国憲法には、権力分立を直接的に宣言する条文がない。しかし、第41条において「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」とされ、第65条において「行政権は、内閣に属する」とされ、さらに第76条第1項において「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」とされていることから、日本国憲法が権力分立主義を採用することは明らかである。すなわち、日本国憲法は、国家の統治権の作用を、立法、行政、司法に分割し、それらを相互に独立する別個の機関にそれぞれ担当させているのである。なお、権力分立主義は多分に歴史的な概念であることには、注意が必要である。

 日本国憲法の規定には示されていないが、権力分立主義は、国や時代、そして論者によって多少の違いがあるものの、元々、国家権力の諸作用を主に機能面から複数の国家機関に分配し、それぞれに担当させることによって均衡を保つという考え方である。出現形態が国によって異なるため、内容も異なるのであるが、一般的に認められる特質として4つが指摘される。

 (1)自由主義:何故、単一不可分であるはずの国家権力を、三つの異なる国家機関に分割して担当させるのか。それは、一つに集中させると、権力の濫用を生じさせるからである。権力が集中すれば、国民の権利や自由はたやすく蹂躪される。このことは、歴史が証明してくれる。

 (2)消極主義:権力を分割するだけでは不十分であるが、実際の問題として、三権は、時として相互に摩擦することがある。この摩擦を、権力分立主義は意図的に生じさせる、あるいは利用する。このことによって、一つの権力が暴走することを防ごうとするのである。

 (3)懐疑主義:アメリカ合衆国の独立宣言の主たる起草者にして第3代大統領であったジェファーソン(Thomas Jefferson. 1743-1826)は、自由な政府が国民の猜疑によって生まれるという趣旨のことを述べている。そこには、政府に対する国民の信頼という考え方はない。こうした、権力に対する悲観主義が、権力分立主義の根底にあることは否定できない。言わば、政府性悪説である(とすると、国民性善説であるのか。これは不明である)。

 (4)政治的中立主義:権力分立主義は、一般的に民主主義の前提と考えられている。しかし、実際には、立憲君主制という形態が存在することから明らかであるように、権力分立主義は君主制とも結合する。イギリスはこの典型であるし、現在でもヨーロッパに残る王国(オランダ、スウェーデン、ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルク、スペインなど)も、立憲君主制を採り、権力分立主義を採用するのである。逆に、君主主義を採らない国家(共和制)であっても、権力分立制を採用しない国家もある(ナチス期のドイツ、旧ソ連など)。結局、権力分立主義は、君主制を採るか民主制を採るかという単純なものではなく、人権保障を中核に据えるか否かの問題と関係し、人権保障を担保するための一手段であるといいうるのである。

 しかし、前述のように、19世紀後半から、第4階級とも言われる労働者階級の発展に伴い、それまで市民階級の利益を実現するための機関であった立法府が変質せざるをえなくなったことから、権力分立主義の変容がみられることとなる。階級対立を防ぐため、または解決するための機能は、従来の警察や国防のみでは到底カヴァーできるものではなく、それ以外の新しいものを必要とした。それまでの形式的平等から実質的平等への変化が期待されたのである。しかし、議会には、こうしたものを生み出すことができなくなった。20世紀、とくに第一次世界大戦後、上記の機能はさらに拡大し、積極国家・社会国家が要請されるようになった(これに対し、従来の近代立憲主義国家は、ドイツの社会主義者ラサール(Ferdinand Lassale. 1825-64)によって「夜警国家」と揶揄されたし、消極国家とも言われた)。そうすると、ますます議会は機能しなくなる。そこで、行政権の活動が必然的に多くなった。こうして、多くの国家において行政権の比重の拡大という現象が見られてきた。いわゆる行政国家現象であり、権力分立主義の変容とは、第一に行政国家への変化である。

 但し、既に述べたように、日本の場合は元々行政国家的な色彩が強く、本文に示した説明はそのままでは妥当しない。

 権力分立主義そのものは、ファシズム、ナチズム、共産主義などからの挑戦を受けつつも、維持されてきた。しかし、国家レヴェルであれ地方レヴェルであれ、立法権を担う議会の空洞化が、一般的に見られるようになったのである。

 行政権は、元来、法の執行機関と位置づけられていた。しかし、議会が機能不全に陥るならば、実際に政策を立てうるのは行政権である。何故なら、国家活動の範囲が大きくなることにつれて、特殊な専門的知識が多く要求されるし、迅速な、しかも組織的な活動を要求するが、このような事柄を議会に、さらには議員に要求しても、不可能とは言えないまでも困難であるからである。このことから、国の基本政策を形成し、決定するための実質的な権限を、行政権が行使するようになったのである。これは、官僚制の発展にもつながり、オンブズマン制度の成立原因にもなる。

 但し、スウェーデンの場合は憲法などによる特殊な事情があり、行政国家現象がオンブズマン制度を生んだ訳ではない。さしあたり、私のサイト「川崎高津公法研究室」に掲載している「川崎市市民オンブズマン条例についての考察」の第二章「オンブズマン制度についての一般的考察」(http://kraft.cside3.jp/ombuds2.htm)を参照されたい。

 第二の変化は、政党国家現象とも呼ばれる。政党の成立原因は、国家によって異なるが、第一の変化において述べた階級対立が、後の政党に発展する場面は多い。元々の権力分立主義は、政党の存在を予定しておらず、むしろ敵対的な態度を見せたほどである。しかし、現実の政治制度に鑑みれば、良かれ悪しかれ政党を無視することはできない。そして、政府・与党と野党との対抗関係が、重要になる。政党は、立法権にも行政権にも関与するのである。

 第三の変化は、司法国家現象とも呼ばれ、人権保障の発展と関連がある。国家活動の範囲が拡大されれば、それだけ人権侵害の可能性が広がる。そして、多くの法案が、行政権によって作成され、立法権によって可決されるから、それだけ統制の必要性も大きくなる。行政法学に取り組むにあたり、最も注意を強く向けなければならない部分である。

 司法国家現象は、アメリカ合衆国の判例法として登場した違憲審査権の普及による司法権の拡大として捉えられる。アメリカの場合、違憲審査権は現在に至るまで憲法に規定されておらず、1803年のマーヴェリー対マディソン(Marbury v. Madison)事件判決、とくにマーシャル(John Marshall)首席裁判官の法廷意見により、判例法として確立された。しかし、アメリカ合衆国の実質的な憲法の一部をなしているのみならず、20世紀に入り、違憲審査権は幾つかの類型の下に発展し、少なからぬ国で確立されている。日本国憲法も、第81条により、最高裁判所を頂点とする裁判所が違憲審査権を行使することとされている。

 しかし、実際のところ、日本において違憲審査権はそれほど行使されておらず、憲法違反の疑いがある法律などについても、合憲の判断が下されている。日本の司法権は、行政権および立法権に対して、積極的に統制を加えることが少ないのである。多くの判決にうかがわれるように、これまでは行政権の第一次的判断権を尊重するという態度が見受けられ、それは過剰でないのかという疑念すら生じさせるものであった。これは、権力分立主義の誤解もしくは曲解に、または時代の変化への不対応に由来するものと思われる。そして、その原因の一つは、従来の行政法学や憲法学が生み出したものであるとも言いうるであろう。

 なお、権力分立主義は、元々、立法、司法、行政のそれぞれを担う国家機関相互の抑制・均衡を目指すものとして理解されていたが、最近では、例えば行政権内部における抑制・均衡の関係をも目指すものとする理解が生じている〈その例として、櫻井・橋本・『現代行政法』〔第2版〕20頁〉。これは、従来から内部監査などの形式で行われているが、行政監査といい、会計検査院による検査といい、その機能の有効性については議論がある。2001年には行政機関が行う政策の評価に関する法律が制定され、政策評価の指針や評価基準の策定、さらに第三者機関の設置などが行われている。

2025年7月10日木曜日

第2回 行政法とはいかなる法か

 1.公法と私法との区別

 それでは、行政法とは何か。

 行政法を「行政に関する法」、より詳しく言うならば「行政の組織・作用・統制に関する法である」と定義することも可能である。あれこれと難しいことを考えるのでなければ、定義としてはこれで充分であろう(それでも「難しい言葉」が入っているが)。

 しかし、例えば県庁において事務用品・備品を購入する際に、(会計法などによる規制は別として)民事法、とくに民法による規律が妥当すべきである。道路や学校校舎などの建設についても、やはり民事法の請負契約が基本的に妥当すべきである。このような場合にまで、行政法という必要はない。

 そこで、日本の行政法学は、伝統的に、公法と私法の二分論を採用し、行政法を公法に位置づけた上で、行政法は「行政の組織及び作用並びにその統制に関する国内公法」であると定義してきた〈田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1976年、弘文堂)24頁〉

 まず、行政法は、国内における法であり、条約などの国際法とは区別される。そして「行政の組織及び作用並びにその統制に関する」とされるのは、同じ国内公法である憲法と区別するためである。憲法は、国家を中心にし(従って、立法および司法を含む)、国家の組織および国家の作用に関する根本的な事柄を定めているのである。そして、行政法が公法とされるのは、民法や商法などの私法とは異なる、特殊な、そして固有の法であることを主張するためである。

 もっとも、公法と私法との区別については、何を基準にするかによって見解が分かれ、両者の区別は相対的である。公益・私益を区別の基準とする説(利益説)もあるが、これだけでは区別できない。また、少なくとも一方の当事者が国または(地方)公共団体である法律関係を規律する法が公法であり、私人間の法的関係を規律する法が私法であるとする説(主体説)がある。これは、説明としてはわかりやすいが、国または(地方)公共団体が私人間の法的関係と同じ性質の法的関係を私人と結ぶときには私法であるとしなければならないし、かえって区別の規準が曖昧になるおそれがある。

 そこで、日本の行政法学は、ドイツの行政法学の影響を強く受けて、国家と私人との権力関係を規定する法が公法であり、(私人間の)対等な関係を規定する法が私法であるとする説(権力説)を採用する。

 しかし、実際に、何が公法であり、私法であるかを判断することは難しいし、実益があるかも問題である。公法は基本的に権力関係を規律する法であり、私法は対等関係を規律する法であるというのであるが、実際には、権力関係において私法の規定が適用される場面が存在する。具体的な例をみることとしよう。

 

 2.民法第177条は、行政法関係に適用されるのか

 民法第177条は、不動産の物権変動における対抗要件としての登記に関する規定である。ここでは、基本的に対等の当事者同士が或る不動産の所有権について争っている場合に、自己の所有権を主張し、それを裏付けるようなものとして登記が必要であるとされている。それでは、行政による権力的行為については、やはり登記という対抗要件が必要になるのであろうか。

 (1)最三小判昭和31年4月24日民集10巻4号417頁

 事案:原告が訴外A社から土地を購入し、代金を支払った上に、土地を自己の所有物とする財産税の申告をU税務署長に行ったが、所有権移転登記手続を済ませていなかった。A社が租税を滞納していたことがきっかけで、Y1(税務署長)はこの土地をA社名義のものとして差し押さえ、登記名義も変更した上で、Y2を競落人とする公売処分を執行した。そして土地の登記名義もY2になった。Xは、Y1に対しては一連の処分の無効確認を求め、Y2に対しては所有権移転登記の抹消登記手続を求める訴えを提起した。一審判決(富山地判昭和28年5月30日行集4巻5号1136頁)はXの請求を棄却したが、控訴審判決(名古屋高金沢支判昭和28年12月25日行集4巻12号3127頁)はXの控訴を容れて請求を認容したため、Y1およびY2が上告した。最高裁判所第三小法廷は、以下のように述べて破棄差戻しの判断を示した。

 判旨:「国税滞納処分においては、国は、その有する租税債権につき、自ら執行機関として、強制執行の方法により、その満足を得ようとするものであつて、納者の財産を差し押えた国の地位は、あたかも、民事訴訟法上の強制執行における差押債権者の地位に類するものであり、租税債権がたまたま公法上のものであることは、この関係において、国が一般私法上の債権者より不利益の取扱を受ける理由となるものではない。それ故、滞納処分による差押の関係においても、民法177条の適用があるものと解するのが相当である」。その上で、「国が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当るかどうかが問題となるが、ここに、第三者が登記の欠缺を主張するにつき正当な利益を有しない場合とは、当該第三者に、不動産登記法4条、5条により登記の欠缺を主張することの許されない事由がある場合、その他これに類するような、登記の欠缺を主張することが信義に反すると認められる事由がある場合に限るものと解すべきである」(強調は引用者による。以下、毎回における判例からの引用について同じ)。

 なお、この判決には小林俊三裁判官の反対意見が付されている。同裁判官は「国といえども、ひと度租税債権者として納税人と私法の支配する関係に入つた以上、その特殊の性質から出て来る事項を除いては、法律の解釈適用についてすべて他の当事者と同等の地位に立つべきものである」と述べている。

 民法第177条の適用という点からすれば、民法において先取特権が規定されており、国税徴収法第19条ないし第21条、同第23条、同第26条などにおいて先取特権や質権などとの調整に関する規定が存在すること、地方税法第14条の13、同第14条の14、同第14条の17などにも国税徴収法と同種の規定が存在することから考えてみても、前掲最判昭和31年4月24日の論旨は妥当である。

 (2)最一小判昭和35年3月31日民集14巻4号663頁(Ⅰ-11)

 事案:前掲最三小判昭和31年4月24日により差し戻された事件である。差戻控訴審判決(名古屋高判昭和32年6月8日民集14巻4号708頁)はXの控訴を棄却したので、Xが上告した。最高裁判所第一小法廷はXの上告を認容し、差戻控訴審判決を破棄した。

 判旨:「本件のような場合国が上告人の本件土地所有権の取得に対し登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する第三者に該当しないという為めには財産税の徴収に際し前控訴審判決の認定したような経緯、詳言すれば、上告人は前示差押登記前である昭和21年2月15日魚津税務署長に対し本件土地を自己の所有として申告し、同署長は該申告を受理して、上告人から財産税を徴税したという事実だけでは足りず、更に上告人において本件土地が所轄税務署長から上告人の所有として取り扱わるべきことを強く期待することがもっともと思われるような特段な事情がなければならない」。本件において認定された事実などを勘案すれば、所轄税務署長が本件土地をXの所有物として取り扱うべきであることをXが「強く期待することが、もっともと思われる事情があったものと認めるを相当と考え」られるのであり、Y1はXの「本件土地の所有権取得に対し登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する第三者に該当しないものと認むべき」である。

 (3)最大判昭和28年2月18日民集7巻2号157頁

 事案:Xは訴外Aから農地を購入していたが、所有権移転登記手続を済ませていなかった。農地改革の折、別府市B地区農地委員会は、農地の所有者は登記名義人であり、かつ不在地主のAであるとする認定を行い、買収計画を定めた。Xは、別府市B地区農地委員会に対する異議申立て、および大分県農地委員会への訴願を行ったが、Xの請求は棄却された。そこで、Xは、大分県農地委員会の裁決の取消しを求めて訴えを提起した。一審判決(大分地方裁判所、判決日不明、民集7巻2号176頁参照)および控訴審判決(福岡高判昭和25年10月9日民集7巻2号179頁参照)はXの請求を認容したので、大分県農地委員会が上告した。

 判旨:最高裁判所大法廷は、農地買収処分が権力的な手段による強制的な買い上げであり、民法上の売買とは本質を異にするから、自作農創設特別措置法による農地買収処分に民法第177条の適用は認められないという旨を述べ、上告を棄却した。これに対しては、真野裁判官の補足意見、霜山裁判官の少数意見、および井上裁判官・岩松裁判官の少数意見がある。

 〈なお、最二小判昭和41年12月23日民集20巻10号2186頁などは前掲最大判昭和28年2月18日と反対の趣旨を述べている。〉

 ここで、公法と私法との区別が念頭に置かれていたのか否かについて疑問が生じるが、少なくとも、最高裁判所の判例においては、権力関係であるから公法の分野の事件であり、私法は適用されない、というような思考方法を採っていないことは明らかである。結局は、事案の性質、法律の趣旨などに照らし合わせて考えなければならないであろう。

 

 3.消滅時効(会計法第30条と民法第167条第1項など)

 (1)最三小判昭和50年2月25日民集29巻2号143頁

 事案:訴外Aは陸上自衛隊員として某駐屯地に勤務していたが、昭和40年の某日、駐屯地内の武器隊車両整備工場において、訴外Bが運転していた大型自動車に轢かれ、即死した。Aの両親であるXらは、国家公務員災害補償法第15条による補償金として76万円を受領していたが、自動車損害賠償責任保険法による強制保険金と比較して補償額が低いことなどから、同法第3条に基づく損害賠償請求訴訟を提起した。一審判決(東京地判昭和46年10月30日民集29巻2号160頁)はXらの請求を棄却したため、XらはY(国)の安全配慮義務違反による債務不履行責任の主張を追加して控訴したが、控訴審判決(東京高判昭和48年1月31日訟務月報19巻3号37頁)は控訴を棄却した。Xらが上告し、最高裁判所第三小法廷は控訴審判決を破棄し、東京高等裁判所に事件を差し戻した。

 判旨:「会計法30条が金銭の給付を目的とする国の権利及び国に対する権利につき5年の消滅時効期間を定めたのは、国の権利義務を早期に決済する必要があるなど主として行政上の便宜を考慮したことに基づくものであるから、同条の5年の消滅時効期間の定めは、右のような行政上の便宜を考慮する必要がある金銭債権であつて他に時効期間につき特別の規定のないものについて適用されるものと解すべきである。そして、国が、公務員に対する安全配慮義務を懈怠し違法に公務員の生命、健康等を侵害して損害を受けた公務員に対し損害賠償の義務を負う事態は、その発生が偶発的であつて多発するものとはいえないから、右義務につき前記のような行政上の便宜を考慮する必要はなく、また、国が義務者であつても、被害者に損害を賠償すべき関係は、公平の理念に基づき被害者に生じた損害の公正な填補を目的とする点において、私人相互間における損害賠償の関係とその目的性質を異にするものではないから、国に対する右損害賠償請求権の消滅時効期間は、会計法30条所定の5年と解すべきではなく、民法167条1項により10年と解すべきである。」

 (2)最二小判平成17年11月21日民集59巻9号2611頁

 事案:平成11年の某日、Yの次男Aは自動車を運転していたが、松戸市内で赤信号を見落として某交差点に進入した結果、横断中のBに衝突して転倒させ、重傷を負わせるという事故を起こした。Bは松戸市立病院に搬送され、入院治療を受けた。Bの診療費等の負担に関してX(松戸市)に交付された入院証書の連帯保証人の欄には、Yの実印による印影が示されていた。Yは、診療費等の負担についてXとの間で連帯保証契約を結んでいないと主張し、また、仮に連帯保証契約を結んでいたとしても、本件の訴状がYに送達されたのが平成15年8月30日であるから、それより3年以上前に発生した診療費請求権は時効消滅するとして、消滅時効の援用を主張した。これに対し、Xは、松戸市立病院が地方自治法第244条第1項にいう公の施設に該当することなどから、消滅時効期間は同法第236条第1項に規定される5年と解すべきであると主張した。一審判決(千葉地松戸支部平成16年8月19日民集59巻9号2614頁)はXの主張を認めたが、控訴審判決(東京高判平成17年1月19日民集59巻9号2620頁)は、前掲最一小判昭和59年12月13日を参照しつつ「公立病院の施設自体は,中核をなす診療行為に付随する利用関係にすぎないのであって,公立病院と病院利用者との間の法律関係は,基本的には私立病院と利用者の間の法律関係と異なるところはないから,その使用料は私法上の債権と解すべきである」として、Xの請求の大部分を棄却する判決を下した(3年の消滅時効にかからない部分のみ請求を認容した)。Xが上告したが、最高裁判所第二小法廷は上告を棄却した。

 判旨:「公立病院において行われる診療は、私立病院において行われる診療と本質的な差異はなく、その診療に関する法律関係は本質上私法関係」であり、「公立病院の診療に関する債権の消滅時効期間は、地方自治法236条1項所定の5年ではなく、民法170条1号により3年と解すべきである」。

 注意:平成29年法律第44号により、民法第170条から第174条までは削除されている。したがって、あくまでも事案の性質がいかなるものかという点について注意すべきである。

 

 4.公営住宅の利用関係

 (1)最一小判昭和59年12月13日民集38巻12号1411頁

 事案:被告Yは昭和30年代から某都営住宅に居住していた。公営住宅法第21条の2、同施行令第6条の2など、および東京都営住宅条例第19条の3(いずれも当時)によれば、都営住宅を引き続き3年以上使用しており、かつ、一定の月額収入を超える者は割増賃料を支払う義務を負っており、Yはこれに該当していたが、割増賃料を一切支払わなかった。また、Yは、東京都の許可を得ることなく増築を行った。東京都は、これらが住宅の明渡事由に該当するとして、使用許可を取り消し(実際には撤回である)、割増賃料相当額の支払、増築した建物の収去、および土地の明渡を求めて出訴した。

 一審判決(東京地判昭和54年5月30日下民集30巻5~8号275頁)は、東京都の請求のうち、割増賃料相当分の支払に関する請求のみを認容した。東京都が控訴し(請求の一部を変更している)、控訴審判決(東京高判昭和57年6月28日高民集35巻2号159頁)は東京都の敗訴部分を取消し、Yに土地の明渡を命じた。Yが上告したが、最高裁判所第一小法廷は、Yの上告を棄却した。

 判旨:まず、最高裁判所第一小法廷は、公営住宅法および東京都営住宅条例の規定の趣旨から「公営住宅の使用関係には、公の営造物の利用関係として公法的な一面があることは否定しえない」としつつも、「入居者が右使用許可を受けて事業主体と入居者との間に公営住宅の使用関係が設定されたのちにおいては、前示のような法及び条例による規制はあつても、事業主体と入居者との間の法律関係は、基本的には私人間の家屋賃貸借関係と異なるところはなく、(中略)公営住宅の使用関係については、公営住宅法及びこれに基づく条例が特別法として民法及び借家法に優先して適用されるが、法及び条例に特別の定めがない限り、原則として一般法である民法及び借家法の適用があり、その契約関係を規律するについては、信頼関係の法理の適用があるものと解すべきである」と述べる(強調は引用者による)。その上で、Yによる増築に関して前記東京高判が信頼関係の法理が適用されないとした点を誤りとしつつも、増築の規模が大きかったなどの理由により、結論として前掲東京高判を支持した。

 (2)最一小判平成2年10月18日民集44巻7号1021頁

 事案:訴外Aは、昭和20年代に某都営住宅に入居し、原告の東京都に賃料を払っていたが、某日に死亡した。その日以降、Aの孫であるY1は、Aから代襲相続によってこの都営住宅の使用権を相続したとして、占有を続けていた。また、Y1の甥であるY2は、Y1から承諾を受けたとしてこの都営住宅に同居していた。東京都は、Y1が東京都営住宅条例第14条の2(現在は削除されている)に規定される使用権の承継の許可を得ていないとして、建物の明渡を請求した。

 一審判決(東京地判昭和63年12月22日民集44巻7号1026頁)は東京都の請求を認めたのでY1およびY2が控訴したが、控訴審判決(東京高判平成元年9月18日民集44巻7号1033頁)は控訴を棄却した。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、次のように述べて、Y1およびY2の上告を棄却した。

 「公営住宅法は、住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で住宅を賃貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とするものであって(1条)、そのために、公営住宅の入居者を一定の条件を具備するものに限定し(17条)、政令の定める選考基準に従い、条例で定めるところにより、公正な方法で選考して、入居者を決定しなければならないものとした上(18条)、さらに入居者の収入が政令で定める基準を超えることになった場合には、その入居年数に応じて、入居者については、当該公営住宅を明け渡すように努めなければならない旨(21条の2第1項)、事業主体の長については、当該公営住宅の明渡しを請求することができる旨(21条の3第1項)を規定しているのである」から、「入居者が死亡した場合には、その相続人が公営住宅を使用する権利を当然に承継すると解する余地はないというべきである」。

 ▲既に、公法は国家と私人との権力関係を規定する法であると記したが、実は、公法は管理関係というものをも規律する(この場合は伝来的公法関係とも称される)。権力的な関係ではないが、契約締結の自由などが存在しない、または著しい制約を受けているという点において私法とは異なる関係のことで、主に国民の生存権の確保などを目的とするものである。

 

 5.契約の当事者の一方が行政法規に違反している場合の、私法上の効力の有無

 公法と私法との関係ということでは、「行政法規に違反する行為は、私法上、効力を有するのか?」という問題も重要である。よく引き合いに出される例として白タクの話がある。或る駅でタクシーを待っていたら、無許可のタクシー(白タク)がやってきて、それに乗ったところ、通常のタクシーより高い料金を支払わされた、とする。ここで、権利濫用(民法第1条第3項)や公序良俗(同第90条)などを問わないとすると、白タクに乗車して目的地まで行ってもらうという契約は有効なのであろうか。

 ここで、判例による考え方を示しておくと、公共の安全や秩序の維持を目的とする警察取締法規に違反した行為の場合は、私法上の効力は否定されない。これに対し、契約や取引の自由を規制することを目的とする統制法規に違反した行為の場合は、私法上の効力は否定される。

 (1)最二小判昭和35年3月18日民集14巻4号483頁

 X社は、A社(食品衛生法による許可を受けている)の代表取締役であるY(食品衛生法による許可を受けていない)に対して精肉を売り渡した。しかし、Yは内金を支払ってはいたが、代金のうちの残りの部分を払っていなかった。Xは、その残りの部分と遅延損害金の支払いを求めた。これに対し、Yは、自らが食品衛生法による許可を受けていないこと、取引の当事者はXとAであってYではないことなどを理由として、売買契約が無効であると主張したが、最高裁判所第二小法廷は、食品衛生法を警察取締法規と理解した上で、この法律による許可を受けていない当事者との取引は、私法上の効力を否定されないと判示した。

 (2)最二小判昭和30年9月30日民集9巻10号1498頁

 Xは煮干し鰯の売買について、当時の臨時物資需給調整法などによる資格を得ていなかった。XはYに煮干し鰯千貫を売り渡し、引渡しも済ませたが、Yが代金を支払わなかったので、Xが訴えを提起した。最高裁判所第二小法廷は、臨時物資需給調整法などを経済統制法規と理解した上で、この法律に定められた登録などを行っていない無資格者の取引は、私法上の契約としても無効である、と述べた。

 しかし、最近では、警察取締法規と統制法規との区別を絶対視しないという傾向がある。すなわち、警察取締法規に違反する行為が常に私法上有効であるとは限らないし、経済統制法規に違反する行為が常に私法上無効であるとも限らない。

 

 6.公法の規定により認められる(または禁止されていない)行為が私法に違反する場合の、私法上の効力の有無

 上記とは逆に、公法の規定において認められる、または禁止されていない行為が私法に違反する場合に、私法上の効力の有無が問題となる。例えば、建築基準法第63条に基づき、準防火地域において耐火構造の外壁による建築物が建てられたが、その建築物が民法第234条に違反する(境界線から外壁まで50cmも離れていなかった)という場合、その効力はどのようになるのであろうか。この問題については、次の二つの考え方が成り立ちうる。

  ①建築基準法第63条は民法第234条に対する特別法であるから、相隣者の同意などがなくとも、建築基準法第63条に規定される要件を満たせば、民法上も建築は許される。民法第234条が木造建築物しかなかった頃に制定されたこと、建築基準法第63条は一定の要件の下で許容する規定の形であり、規制の形をとっていないこと、建築基準法に接境建築を禁止する規定が存在しないことなどが、理由としてあげられている。

  ②建築基準法第63条は民法第234条に対する特別法ではない。従って、建築基準法第63条と民法第234条とは性質が全く異なる。建築基準法は行政法規であり、主に建築主事による建築確認の基準という意味を有するのに対し、民法は私人間の権利関係を調整するための基準という意味を持つ。そのため、前者によって許される建物であっても、後者に違反してはならない。民法第234条の目的は、隣地建物の建築や修繕の便宜、延焼の防止、日照や通風や採光などの環境利益の確保である。また、①の考え方をとると、結局、建物の建築や修繕に際して早い者勝ちということになる。

  この問題については、次の判決が参考になる。

  ●最三小判平成元年9月19日民集43巻8号955頁

 事案:Yは、大阪市内の商業地域に土地を有していた。この地域は準防火地域(都市計画法第8条第1項第5号)であったため、Yは自己の所有地上において、外壁が耐火構造となっている建造物の建築に着手した。これに対し、隣地を所有するXは、Yの建造物が境界線から50センチメートル以上の距離を置いておらず、民法第234条に違反するとして、建物の一部収去および損害賠償などを求めて出訴した。これに対し、Yは上記①の見解を採って抗弁した。

 一審判決(大阪地判昭和57年8月30日判時1071号95頁)は、Yが「建築基準法65条との関係においては、本件(一)建物の外壁を隣地境界線に接して建築することができる」としつつ〈現行の建築基準法においては第63条である〉、「民法234条1項と建築基準法65条との関係についてみると、建築基準法65条は防火という公共的観点から定められたものでありながら、同時に私人間の生活関係の規律に密着するものであり、一方、民法234条1項の規定は、接境建築の建物によって、隣地の採光、通風、隣地上の建物の築造、修繕の便宜、その他利用上の障害を与えないという相隣土地所有権者相互の土地利用関係を調整するために定められたものである。そうだとすれば、建築基準法により防火地域又は準防火地域として指定を受けた市街地内にある建築物で、その外壁が耐火構造のものについて、それだけで直ちに民法234条1項の適用が排除されるものではなく、土地の高度、効率的利用のため、民法234条1項が保護する前記相隣者間の生活利益を犠牲にしても、なお接境建築を許すだけの合理的理由、例えば相隣者間の合意とか、民法236条の慣習等がある場合に限ってはじめて、建築基準法六五条が民法234条1項に優先適用されるものと解するのが相当である」と述べ、本件については「接境建築を許すだけの合理的理由」がないと判断した。

 Yは控訴したが、控訴審判決(大阪高判昭和58年9月6日民集43巻8号982頁)は控訴を棄却した。そのため、Yが上告した。

 判旨:最高裁判所第三小法廷(多数意見)は、次のように述べて上告を認容し、Xの請求を棄却した(上記①の見解を採ったこととなる)。

 「建築基準法65条は、防火地域又は準防火地域内にある外壁が耐火構造の建築物について、その外壁を隣地境界線に接して設けることができる旨規定しているが、これは、同条所定の建築物に限り、その建築については民法234条1項の規定の適用が排除される旨を定めたものと解するのが相当である。けだし、建築基準法六五条は、耐火構造の外壁を設けることが防火上望ましいという見地や、防火地域又は準防火地域における土地の合理的ないし効率的な利用を図るという見地に基づき、相隣関係を規律する趣旨で、右各地域内にある建物で外壁が耐火構造のものについては、その外壁を隣地境界線に接して設けることができることを規定したものと解すべきであって、このことは、次の点からしても明らかである。すなわち、第一に、同条の文言上、それ自体として、同法6条1項に基づく確認申請の審査に際しよるべき基準を定めたものと理解することはできないこと、第二に、建築基準法及びその他の法令において、右確認申請の審査基準として、防火地域又は準防火地域における建築物の外壁と隣地境界線との間の距離につき直接規制している原則的な規定はない(建築基準法において、隣地境界線と建築物の外壁との間の距離につき直接規制しているものとしては、第一種住居専用地域内における外壁の後退距離の限定を定めている54条の規定があるにとどまる。)から、建築基準法六五条を、何らかの建築確認申請の審査基準を緩和する趣旨の例外規定と理解することはできないことからすると、同条は、建物を建築するには、境界線から50センチメートル以上の距離を置くべきものとしている民法234条1項の特則を定めたものと解して初めて、その規定の意味を見いだしうるからである。」

 これに対し、伊藤正己裁判官は「建築基準法は、建築物の敷地、構造、設備及び用途について公益の観点から最低の基準を定めているのであり(同法1条)、公法上の見地から規制を加えているのであって、法律全体としてみれば、私人間の権利を調整しているわけではない」と述べ、多数意見に反対した。

 

 7.公法と私法の区別についての小括

 以上のように、公法と私法という分類には、公法の適用範囲とされる事案について私法の適用があるのかという問題があり、適用される場面が少なからず存在するということになると、行政法は公法であるという主張の妥当性が疑わしくなってくる。そのため、最近では、公法と私法との分類を否定する見解が勢力を増しており、とくに、戦後生まれの世代による学説の多くが、こうした説を採るように思われる(定着したという評価も多く見られる)。少なくとも、かつてのように公法・私法二分論が強調されることは少なくなっている。

 例えば、公法上の不当利得というような観念は、無用のものである、公権論についても同様である、というような説明がなされている。行政事件訴訟法には、公法上の当事者訴訟という訴訟類型が規定されているが、制度的・手続的に民事訴訟と大差なく、利用件数も少ない。私も、公法・私法二分論には疑問を抱いているが、それでは行政法の特質とは何かという問題に、公法・私法二分論批判説が十分に答えているとも思えない。

 たしかに、公法・私法二分論によって全てを割り切ることはできない。行政法学においても、従来からの行政行為論などとともに、行政契約論、その他、私法的行為に関する議論がなされざるをえなくなっている。

 しかし、行政法において、民法や商法などと異なる部分が存在することは、否定のしようがないところであろう。少なくとも、行政法は、民法などの私法と異なることが多い。例えば、自動車の運転免許証の交付を、私法における契約などと同じように考えることはできない。対等な当事者間における関係は、運転免許証の交付という場面においては見られない。むしろ、自動車の運転は、本来ならば国民の権利・自由に属する行為とも考えられるが、安全・秩序の維持という観点から、法律によって一般的に禁止し、一定の要件を充たす場合に、その禁止を行政が運転免許証の付与によって解除するのであり、この点において行政側が国民に優越する位置に立っているのである(行政法学における許可)。このように、行政法は、それなりに民法などとは異なる法なのである、と言うことはできる。

 

 8.行政法の基本類型

 この回の最後に、行政法の基本類型をみておく。これは行政法学の体系上のものであり、多くの行政法学の教科書がこれに従っているものである。

 (1)行政組織法(機構法)

 法律制度の枠組自体を規律する法が組織法(機構法)である。例として、国家行政組織法、裁判所法をあげることができる。また、憲法も、国家の基本組織を定めるという意味において、これに含まれる。地方自治法も、組織法の一つである。

 行政組織とは、行政主体が行政を行うために設置した組織である。行政組織法は、国・公共団体などの行政主体の組織(単位たる行政機関の設置・廃止・構成)・権限、機関相互間の関係に関する規律、国・公共団体などの行政主体相互間の規律(行政主体相互間の事務の分担)を内容とする。また、厳密に言うならば行政組織に関する法とは言い難い部分もあるが、公務員に関する法も、行政組織法の一部である。

 なお、行政法学においては、行政活動を行うものと行政活動の相手方との法的関係を中心に据える。その場合の行政活動を行う側が行政主体である(行政体と表現する論者もある)。国、地方公共団体の他、行政事務を行う公法人(日本銀行など)、法律などに基づいて組合員のために特定の事業を行う公法人(土地改良区、土地区画整理組合など)も行政主体である。但し、行政主体であるか否かの判断が困難な場合もある。民生委員や行政相談委員は、公の活動を行うが行政主体でない。逆に、日本放送協会は、放送法などを通じて国の監督権を受ける(予算も国会の決議の対象となる)が公の活動を行うとは言えない。

 (2)行政作用法

 一般的に、社会において行われる個々の行為を規律する法が行為法(作用法)である。行政作用法は、国・公共団体などの行政主体と私人との間の、公法上の法律関係に関する規律を内容とし、行政が私人に対していかなる行為をなしうるか・なすべきか・なさざるべきかを規律する。

 行政作用法は、総論と各論とに分けられる。一般的に言われる行政法総論は、行政作用法総論を中心とする(論者によって、また、大学のカリキュラムによって範囲に違いがあり、行政法総論に行政救済法や行政組織法総論が入ることもある)。この講義ノートは、行政作用法のうち、総論を扱う。

 行政作用法総論は、各行政分野において用いられる作用または手段の共通性に着目し、これらを取り上げて研究をなそうとする分野である。行政裁量、行政行為、行政立法などを扱う。これに対し、行政作用法各論は、各行政分野(警察行政、財務行政、社会保障行政など)毎に行政作用を扱い、研究の対象とするものである。一般には行政法各論と言われる(実際には行政組織法各論というべき部分も入ってくる)。現在では独立した分野として扱われる租税法や教育法なども、元来は行政作用法各論として扱われていた。

 (3)行政救済法

 行政活動は、憲法・法律・条例に従って適切に行われなければならない。しかし、常に適法かつ正当に行われるとは限らない。違法または不当な行政活動によって国民の権利・自由が侵害されたり、侵害されるおそれが存在することもある。そこで、このような行政活動から国民の権利・利益を救済し、行政活動を統制するために作られるのが行政救済法である。行政救済法は、主に行政活動の事後的な統制に関する法である(国家賠償法、行政不服審査法、行政事件訴訟法など)。

 (4)行政手続法

 行政活動の事前的な統制に関する法である。行政行為がなされる段階を基準とすれば、事前的な段階における行政手続と事後的な段階における行政手続とが考えられるが、一般的には事前的な段階における行政手続を指し、行政手続法もその段階を規律するものと理解される。従来、行政法の基本類型の中に行政手続法は含められていなかったが、行政手続法は純粋な行政作用法と言い難いし、行政救済法とも異なる。そのため、ここでは、行政手続法を一つの基本類型としておく。

 

 ▲第7版における履歴:2020年4月15日掲載。

 ▲第6版における履歴:2015年9月22日掲載。

              2017年10月26日修正。

              2017年12月20日修正。

2025年4月25日金曜日

第1回 行政とは、一体どのようなものか

 何かがきっかけとなって「これから法律の勉強をしよう」と思う方も少なくないであろう。

 そのきっかけは何でもよい。別に自分が深刻なトラブルに巻き込まれている、というようなことがなくてもよい。ふと、日常生活において疑問が生じた、ということで十分である。そこに行政法のスタートラインがある。日常生活そのものが行政法の学習を始める際の格好の素材である。その点において、行政法は憲法や刑法よりもはるかに身近である。

 もしかしたら、これは誰かが残した言葉なのかもしれないが、「どの分野であれ、学問に手を染めるのであれば、まずは自らの足下を見つめていただきたい」。自らの生活を、改めて見つめていただきたい。

 よく、「つまらない日常生活」とか「退屈な日常生活」などと言われるが、本当にそうであろうか。「つまらない」、「退屈」、「平凡」などと多くの人に思われていることこそ「実は社会が機能していることを意味する」と考えるべきであるし、何故そのように考えられないのかが不思議である。安定した社会を創り出すことがいかに大変な努力を必要とするかについては、目を国際情勢に向ければすぐにわかるし、ましてや維持することには、強大な国家権力、高度な行政技術を必要とする。日常生活が成り立っているのは、実は驚異的なことなのである。

 日常生活において、上水道、下水道、電気、ガスを使う。生きている限りはごみが出るし、勤務先から給料を受け取る際には所得税などが天引きされている(源泉徴収)。私は、現在、通勤のためなどに東急田園都市線を利用しているから、運賃を払っている。一方で車を持っているから、自動車運転免許証を持っているし、自動車重量税なども払っている。少しばかり例を出したが、これらは全て、行政と関係のある事柄である。いや、日常生活において、我々は、直接的であれ間接的であれ、行政および行政法と無関係ではいられない。水道法(上水道)、下水道法、電気事業法、ガス事業法、廃棄物の処理及び清掃に関する法律、所得税法、国税通則法、鉄道営業法、道路交通法、などである。この他、出生届、婚姻届、離婚届、死亡届、義務教育、マイホーム新築、都市計画、災害対策、競馬、パチンコ、など、例を挙げたらきりがない。勿論、警察や消防などの活動も忘れてはならない。直接的か間接的かを問わないならば、現代社会において、行政と無縁の生活を過ごす日は皆無と言ってよいだろう。

 このことを、阿部泰隆教授は「犬、いや、君も歩けば行政法に当たる」と表現されている。これは、『事例解説行政法』(日本評論社、1987年)に掲載され、『行政の法システム(上)』〔新版〕(有斐閣、1997年)ⅵ頁(初版はしがきの再録)にも掲載されている言葉である。

 ここに、電気、ガス、鉄道料金などが並べられることを奇異に感じる方もおられよう。民間企業が運営してはいるが、電力会社は「公企業」の一種とされ、本来ならば国家自身が経営主体となるべきもの、と考えられていたので、特許として経営権を私人に与え、公法上の特権を与える一方、事業遂行の義務を課し、事業に対して特別の監督を加える、という方法(あるいは考え方。認可制)を採用している。ガス事業や鉄道料金についても同様に考えてよい。

 また、金沢地判昭和50年12月12日判時823号90頁などは、競馬、競輪などの「公営競技」も「社会福祉的目的をもつ行政作用」であると述べている。もっとも、公営競技による収益が学校の新設などに役立っていたことは否定できないが、公営競技そのものが「社会福祉的目的をもつ行政作用」と言いうるかどうかは問題である。

 ドイツの著名な行政法学者Ernst Forsthoff (1902-1974)は、行政について次のように述べている。「国家は、警察を通じて公共の安全および秩序に配慮し、租税を徴収して(その徴収した)資金を然るべき利用に供し、道路および運河を設置して道路および運河における交通を規律し、職業安定所を通じて労働力を分配して労働力に社会保障において保護および配慮を与え、学校、大学、博物館および劇場を経営し、エネルギー経済をコントロールし、社会的に重要な組織および企業に国家の財政上の援助およびその他の援助を与え、自身の銀行を通じて貨幣制度の担い手となる。――こうした機能全てにおいて、国家は行政(権)を行使する」〈Ernst Forsthoff, Lehrbuch des Verwaltungsrechts, Band 1, Allgemeiner Teil, 10. Auflage, 1973, S. 1f.〉。基本的な事情は、日本においても同じである。

 また、新聞、テレビやラジオのニュース、さらにインターネットなどを見てみるならば、毎日、どこかで行政の責任あるいは公務員自身の責任が問われていることがわかる。いかなることであろうが、行政の活動について報道がなされない日はないであろう。

 さて、こうしてみると行政というものが我々に身近なものであるということが、多少なりともわかっていただけたと思う。中学校や高校で、社会科の授業で立法、司法、行政という言葉が登場し、それぞれどのようなものであるのかを、多少とも勉強したのではなかろうか。しかし、ここで立ち止まると、行政というものについて「そもそも一体何なのか」という疑問が出てくるかもしれない。

 上の例を御覧いただければおわかりのように、行政は、社会生活の広い範囲に関係する。すなわち、多様性を有する。一度、市町村の役場か都道府県庁に行かれるとよい。何なら東京都千代田区の霞が関や永田町を歩いてみればよい。よくわかるはずである。我々の生活と密接な関係を有するだけに、行政法とされる法律の数も範囲も膨大である。そればかりではなく、行政法は、実に多様な分野を、直接的であれ間接的であれ、規律している。

 これを裏返して言うならば、行政は、警察、教育、社会保障・社会福祉など様々な外観をとるにもかかわらず、一つの概念にまとめられている。また、人事も行政に含まれる。すなわち、国家公務員法、地方公務員法など、公務員の身分に関する法律も行政法に含まれる。そのため、行政とは一体何かが問題となる。

 行政法の教科書を開くと、最初に行政の定義に関する記述がなされていることが多い〈もっとも、最近の行政法学の教科書には、行政の定義に触れていないものも少なくない〉。日本語の「行政」という言葉は、英語・フランス語のadministration、ドイツ語のVerwaltungからの訳であるが、これらの言葉は、元々、管理、経営という意味を持っている。最近よく用いられるgovernanceが統治などを意味するのに対し、administrationやVerwaltungは、国家や地方公共団体の日常的な業務の運営や管理、さらにはこれらを行う事業体の経営をも意味することになる。

 しかし、日本国憲法など世界各国の憲法典を概観すると、国家や地方公共団体の業務の運営や管理、そして経営の全てを行政が行っている訳ではない、ということがわかる。例えば、いかなる業務を国家が行うべきであるか、いかなる経営方針を採るべきかについての基本原則などは、法律として示されることになるが、これは行政ではなく、立法機能を担う議会(国会)が制定するものとされている。また、社会においては、法律の適用などをめぐって、人々が有する権利や利益に関する紛争が生じ、これを解決しなければならないという場面が多くなる。そのような紛争の解決も国家や地方公共団体の業務であると考えるべきであるが、その業務、少なくとも最終的な解決については司法機能を担う裁判所が行うものとされている。

 このように考えると、行政は、国家や地方公共団体の業務の運営や管理、そして経営の全てを指すものではない、ということになる。近代立憲国家は、John Locke (1632~1704)を嚆矢とし、Charles Louis de Secontat de la Brède et de Montesquieu (1689~1755)を大成者とする権力分立主義を採用するため、運営や管理、経営の基本的な方針の策定などを立法権に、社会において生じる紛争の最終的な解決を司法権に担当させるのである。日本も、明治時代の大日本帝国憲法において、決して十分と言えないが権力分立主義を採用しており但し、当時としては急進的な憲法であったとも評価されている昭和時代の日本国憲法は、権力分立主義をより徹底したものとしている。

 ここで日本国憲法を参照してみる。憲法は、国家の国家作用(国家の活動)を、立法・司法・行政に分け(三権分立)、立法を国会に(第41条)、司法を最高裁判所以下の裁判所に(第76条)、行政を(第一次的に、かつ最終的に)内閣に担当させる(第65条)。また、都道府県および市町村(地方自治法第1条の3第2項にいう普通地方公共団体)は司法を担当しない、従って、都道府県および市町村は裁判所を持たない。そのため、都道府県および市町村の作用は立法および行政となる。立法は議会に(地方自治法第96条第1項第1号を参照)、行政は都道府県知事または市町村長(同第147条以下を参照)を筆頭に、地方自治法第161条以下に規定される副知事(都道府県)・副市町村長(市町村)、地方自治法第168条以下に規定される会計責任者、その他の執行機関によって担われることになる。但し、行政法学においては、伝統的に、地方公共団体の作用を、性質の如何に関わらず行政として扱うことが多い。

 このことから、日本において、立法とは国会(立法府)が行う活動、司法とは裁判所(司法府)が行う活動、行政とは内閣(行政府)が行う活動である〈但し、憲法第90条に注意!〉、と記すことができる。

 しかし、これは、憲法がそのように定めているから、組織上このようになるというだけのことであり、形式的な説明で終わっている。具体的な中身については何も説明していないに等しい。適切な表現であるか否かはわからないが、器の問題と言いうる。このような説明で述べられる概念を、行政法学などにおいては、それぞれ、形式的な意味における立法、形式的な意味における司法、形式的な意味における行政という。

 形式的な意味における立法・司法・行政の概念では、それぞれの具体的な中身、すなわち、実質的な意味における立法、実質的な意味における司法、実質的な意味における行政を説明することができない場合がある。

 例えば、憲法第55条は「両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する」と、また、第64条第1項は「国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける」と規定する。このことは、例外的ながら、立法機関であるはずの国会が司法機関である裁判所の機能を有する場合があることを示している。しかも、弾劾裁判所は日本国憲法が唯一、例外として認めた特別裁判所であることにも注意されたい。

 また、第73条第6号は内閣の政令制定権を規定し、第77条第1項は最高裁判所の規則制定権を規定する。これらは、行政機関であるはずの内閣および司法機関であるはずの最高裁判所が立法機関としての機能をも有することを意味する。さらに、第80条は、最高裁判所が高等裁判所以下の下級裁判所の裁判官に関して実質的な人事権を有することを規定する。これは、最高裁判所に人事行政権が与えられていることを意味する。器が立法であるから中身が全て立法であるとは限らないのである。

 このようにみると、形式的な意味における立法・行政・司法と、実質的な意味における立法・行政・司法は、重なり合う部分が多いものの、完全に一致する訳ではないことがわかる。憲法が、国家機関の権力均衡を重視して役割の分担を定めているため、形式的な意味と実質的な意味とが一致しないのは、むしろ当然のことである。

 そこで、中身の問題、すなわち、実質的な立法・司法・行政とはそれぞれ何かを考える。行政とは一体何かという問題に答えるためには、まず、立法および司法とは何かという問題に対して答えておく必要がある。日本の公法学(憲法学、行政法学)は、明治時代以来、現在に至るまで、ドイツ公法学の影響を強く受けている。そのためもあって、立法、行政および司法のそれぞれについて、形式的な意味のものと実質的な意味のものとに分け、様々な国家作用を考察する際の前提としている。

 まず、立法について考えてみる。形式的な意味における立法とは、上に記したとおりであるが、さらに記すならば、国法の一形式である法律を定立する機能のことである。ここでは、法律に含まれる規範の中身を一切問わない。しかし、これでは憲法第41条の解釈に際して不都合が生じる。国会は唯一の立法機関であるとされるが、形式的な意味における立法の概念を採用すると、国会は法律という法を定める機関であるということになり、法律で最低限として何を定めるべきかという問いには答えられない。また、法律は、国法の一形式である法律を定める機能を有する国会が定立する法であるということになり、同義反復の説明で終わることになる。そこで、憲法学においては、第41条にいう立法を実質的な意味の立法と解するのである。

 実質的な意味における立法は、法律、政令などというような法の形式ではなく、「法規」(Rechtssatz)という特定の内容を有する法規範を定立する機能をいい、現在では、およそ一般的・抽象的な法規範全てを定立する機能であるとされている。

 次に、実質的な意味における司法とは「具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用」であるとされている〈芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第8版〕(岩波書店、2023年)361頁による〉。言い換えると、法律上の争訟、すなわち法律上の関係(権利義務)に関する争いごとを裁断する行為のことである。

 例えば、AがBに1000万円を貸したがBが返さない場合、BはAに金を返す義務を果たしていない場合を考えてみる。これは、見方を変えればAがBから(相当の利息も付いた上で)金を返してもらう権利を有するが、まだその権利が実現されていないことでもある。この場合に、Aは裁判所に、BがAに金を返すようにという訴えを提起することになる(民事訴訟の典型的な例)。

 また、CがDを殺し、警察・検察に逮捕され、検察官が訴えを提起すると(刑事訴訟法第247条)、裁判所が、Cが有罪であるか否かを判断し、有罪であるとすればCがどの程度の刑罰を受けるべきかを判断する(刑事訴訟の典型的な例)。従って、この場合には権利義務の関係ではないが、Cの法律上の関係についての問題を扱う、と言いうる。もっとも、CがDを殺したということは、CがDの権利を完全に否定したということであるから、その意味においてはCとDとの権利関係が存在しない訳ではない。また、犯罪は、個人に対するものばかりではなく、社会全体に対するもの、国家に対するものも存在するが、その場合であっても、社会全体の利益や国家の利益を損なうのであるから、社会全体に対する法律上の関係、国家に対する法律上の関係が問題となる。

 これに対し、実質的な意味における行政については、見解が分かれている。これは行政の多様性に由来する。行政権がなすべき作用には、警察、教育、社会保障・社会福祉などがあって多様であるし、人事も行政の重要な一分野である。それにもかかわらず、行政という一つの概念にまとめられているため、定義が困難であると考えられるのである。

 現在の日本においては、こうした困難性を承知の上で積極的な定義づけを試みる説(積極説)もいくつか存在するが、むしろ、困難性の故に、実質的な意味の行政について正面から定義づけることを断念する消極説が支配的である。この説は、立法および司法を上記のように定義した上で、国家の全ての作用(活動、機能)の全体から立法と司法を差し引けば、実質的な意味における行政が残ると考えるため、控除説ともいう。

 消極説に対して、これでは定義にならないという批判もある。たしかに、このような定義には、行政の具体的な内容や特性が明らかにされないという難点がある。しかし、立法・司法・行政のいずれも、封建制から絶対王政を経て立憲君主制、さらに共和制への発展という歴史に応ずる形で成立した概念であり、このような定義のほうが、幅広い行政を一つのものとして捉えやすいという大きな利点がある。行政は、規制をすることもあるし、逆に給付をすることもある。権力的な手段を使うこともあるし、非権力的な手段を使うこともある。

 また、もっと積極的に行政を定義しようとする試み(積極説)もあるが、成功してはいない。たとえば、積極説と解されている定義の中には、消極説と大差がないものも見受けられる。

 ドイツ行政法学においては、積極説のほうが有力であるようであるが、定義に関する記述には、消極説と大差がないものも見受けられる。事情は日本においても同じである。Forsthoffは、先程引用した文の前に、「行政は、記述はされうるが定義はされえない、ということが行政の特徴において存在する。行政の個々の仕事は多様性において広がっているが、その多様性は、統一的な形態を無視する」と述べる〈Forsthoff, a. a. O., S. 1f.〉

 さらに、積極説は実益に乏しい。例えば、実質的な意味における行政を積極的にて意義づけようとしなければ、行政行為、行政指導、行政契約などというような個別的な概念が成立しない訳ではない※。逆に言えば、積極説を採る論者の説を概観してみても、積極的な定義づけが個別的概念に直結していない、あるいは、個別的概念の説明などに際して、実質的な行政に関する積極的な定義づけが生かされていないという問題点がある。積極説を採る論者は、これをどのように考えているのであろうか。

 ※塩野宏『行政法Ⅰ』〔第六版補訂版〕(有斐閣、2024年)5頁を参照。なお、ドイツ行政法学において実質的な意味における行政の定義づけが盛んに試みられるのは、おそらく、行政裁判所制度の存在によるものと思われる。しかし、仮に行政裁判所制度が日本に存在したとしても、そのことと実質的な意味における行政の定義づけの必要性の有無とは別の問題であろう。

 以上のことから、私は、この講義ノートにおいて消極説(控除説)を採用することとしたい。

 なお、勿論、行政の活動を分類することは可能である。これにも様々なものがあるが、行政手続法や行政事件訴訟法などとの関連、さらに国民の権利義務との関連という点において、規制行政(侵害行政という表現もある)と給付行政との大別が重要である。この大別は、正確ではないものの、人権論にいう自由権と社会権との区別に、ほぼ対応している。また、規制行政と給付行政との大別は、行政手続法に定められる「申請に対する処分」と「不利益処分」との区分に関連する部分が多い。


 ▲第8版における履歴:2025年4月23日掲載。

  ▲第7版における履歴:2020年2月25日掲載。

  ▲第6版における履歴:2015年11月11日掲載。2017年12月20日修正。

2025年4月23日水曜日

行政法学(など)にいう「法規」の意味

 本格的に行政法学の講義を始める前に、公法学(憲法学、行政法学など)における「法規」という用語の意味について解説をしておくこととする。

 「法規」という言葉は、通常、「法律や規則」〈西尾実他編『岩波国語辞典』〔第8版〕(岩波書店、2019年)〉を意味するものと考えられている。あるいは「法律や規則」の規定を意味すると考える人もいるかもしれない。 

 しかし、実際のところ、「法規」は多義的な概念である。最広義では法規範一般を指すのであり、広義では成文の法令を指す。国語辞典に記されている意味は広義のものと言いうるであろう。 

 さて、行政法学、もっと言えば公法学(憲法学、行政法学など)において、度々「法規」が登場する。この言葉の意味については、十分に注意しなければならない。一般的に理解されているところよりもはるかに狭い意味である、というところから始める必要がある。

 元々、公法学にいう「法規」は狭義のものであり、ドイツ語のRechtssatzの訳語である。Rechtは、英語のrightと異なり、法を意味するだけでなく、権利をも意味する(さらに正義の意味もあれば右の意味もある)。subjektives Recht(主観的なRecht)と記せば権利、objektives Recht(客観的なRecht)と記せば法を意味する。また、Satzは文、文章、定理、命題などを意味する。

 ここからおわかりかもしれないが、Rechtssatzの訳語としての「法規」は、単純に法律の文章、規定を意味するのではなく、権利にも関わるものである。

 ルドルフ・フォン・イェーリング(村上淳一訳)『権利のための闘争』(岩波文庫、1982年)、村上淳一『「権利のための闘争」を読む』(岩波書店、1983年、2015年)を読まれるとよい。

 元々、ドイツ公法学(憲法学、行政法学などをいう)において、「法規」は国民の一般人民の権利・義務に関係する法規範、もう少し丁寧に記すと「国民の権利を直接に制約し、または義務を課する法規範」であると理解されていた。このような性質を有する法規範の定立が国民の代表機関である議会によってなされなければならないとする点において、国民主権主義的要素の確保が図られたのである。

 他方、国民の権利や自由に直接的な関係を有しない法規範は「法規」とされないので、議会の関与を必要としないという考え方にも結びついた。或る種の立憲君主制には適合する概念であるが、日本国憲法のような国民主権原理からすれば不十分である。

 そこで、第二次世界大戦後は、およそ一般的・抽象的な法規範であれば「国民の権利を直接に制約し、または義務を課する法規範」でなくとも「法規」であると解されるようになった。裁判の判決や行政行為は個別的・具体的なものであるため、「法規」と区別される。憲法第41条にいう「唯一の立法機関」を実質的なものにする方向で解釈を行うならば、一般的・抽象的な法規範と捉えるほうが範囲が広くなり、妥当である。

 但し、広く理解するとしても、中核に狭義の「法規」があることを忘れてはならない。


 ▲第8版における履歴:2025年4月23日掲載。

  ▲第7版における履歴:2020年2月26日掲載。

2025年4月22日火曜日

第0回 行政法を学ぶ際の注意事項

 「行政法講義ノート〔第8版〕への前口上」(2025年4月21日付)においても注意事項を記しておきましたが、少しばかり補充をしておきます。

 現在、多くの大学の法学部(とくに法律学科)においては、少なくとも行政作用法総論を扱う科目、例えば「行政法1」というような名称の科目を2年生から履修できるでしょう。

 あるいは、法学部でも法律学科以外の学科、法学部以外の学部、例えば経済学部では3年生以上の科目とされているかもしれません。その場合には1年間で行政作用法総論、行政組織法(総論)、行政救済法を学ぶことになるはずです。

 いずれにしても、行政法を学び始める前に、憲法、民法(総則など)、刑法(総論)を学び、基礎を習得しておくべきである、と考えられているのです。

 行政法を「法律基礎科目」と位置づけている教科書もあります※。しかし、これは、おそらく現在の司法試験で行政法が必修科目の一つとなっているためであって、実際には応用科目として位置づけられるべきです。実際に、行政法は、司法試験の必修科目のうちで唯一、いわゆる六法に含まれていません。そればかりか、行政法は旧司法試験時代に選択科目の一つとされた時期が長く、選択科目から外されたことすらありました。

 ※原田大樹『例解行政法』(東京大学出版会、2013年)xiv頁。但し、同じ頁をよく読んでください。

 応用科目と記したのは、行政法を学んでいると、憲法、民法、刑法、民事訴訟法などに関する知識が必要なことも少なくないからです。例えば、行政作用法総論で学ぶ「法律による行政の原理」や「行政裁量」は憲法と深い関係があります。「法律による行政の原理」は法治主義の一環でもあるため、立憲主義とも関係があります。憲法学でも扱う租税法律主義は「法律による行政の原理」が最も厳格に適用される例でもあるのです。また、とくに「行政裁量」について言いうるのですが、行政作用法総論と憲法の人権論は硬貨の裏表のような関係にあると言えます)。「行政行為」や「行政契約」は民法の総則に登場する法律行為の応用とも言えます。「行政調査」に至っては刑事訴訟法と関係する部分も含まれています。また、行政救済法は民事訴訟法の応用です。

 しかし、2年生の段階で刑事訴訟法や民事訴訟法を履修できるという法学部はほとんどないでしょう。どうすればよいのでしょうか。

 あれこれと手当たり次第に勉強しても身につく訳ではないので、まずは憲法、民法および刑法の復習をしておきましょう。具体的には、次のようになります。

 憲法:人権論を一通り学んでおくのが理想的です。行政作用法総論を学んでいると、憲法の判例とされる判決の多くも登場します。先に記したように、行政作用法総論と人権論は硬貨の裏表のような関係にあります。人権論を理解していないと、「行政裁量」、「行政立法」など多くの部分について理解できないかもしれません。

 ただ、法学部の1年生で履修できる憲法の科目で何を学ぶかは、大学によって異なります。1年生で人権論を学び、2年生で統治機構を学ぶという科目構成になっているほうがよいのですが、逆になっている場合には2年生で人権論と行政作用法総論とを同時並行で学ぶことになります(憲法学の教科書で自習する必要もあります)。そうならざるをえないので、人権論を扱う科目を履修しないということだけは避けてください。

 民法:最低限として、総則を一通り学び終えていることが必要でしょう。歴史的な経緯もあって、行政法の理論の多くは民法の理論の応用として生まれています。とくに「行政行為」は法律行為の応用であり、時には法律行為そのものという部分も登場します。法律行為に限らず、人(自然人および法人)、物、時間(時効など)という要素は、民法であれ行政法であれ、非常に大事な事柄です。

 また、債権総論も或る程度は学んでおくことが望ましいとも言えます。ただ、これは2年生以上で学ぶことでしょうから、同時並行ということになります。

 刑法:やはり、総則、つまり、いわゆる刑法総論を学び終えていることが必要です。もっとも、刑法各論を学び終えている必要はないと考えてかまいません。

 このように記すと「前もってやっておかなければならないことが多いのか」と慨嘆される方もおられるかもしれません。しかし、裏技のようなものがない訳ではありません。行政法で学んだことを、憲法、民法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法などの学習に生かすのです。邪道とも言えますし、方法を誤ると危険ですが、有効な手段であると言えます。

 ちなみに、私は、中央大学法学部法律学科に入学してから、1年生で憲法の人権論や民法総則の科目を履修しましたが、3年生で行政作用法総論の科目を履修し、1冊の基本書を徹底的に読み潰したことで、民法総則のうちの法律行為を理解することができました。当時(1990年頃)は、行政作用法総論の科目が3年生に、行政救済法の科目が4年生に配当されていました。

 なお、法学部(法律学科)の学生であれば、3年生以上で民事訴訟法および刑事訴訟法の科目を履修することになります。行政法でも行政救済法の科目は3年生以上に配当されているところが多いでしょう。同時並行、または民事訴訟法および刑事訴訟法を先行して履修するとよいでしょう。

 最後に。「行政法講義ノート〔第8版〕への前口上」に記したように、この講義ノートでは、法学部以外の学部の学生、さらには法律学に全く触れてこなかったという方も利用されることを念頭に置いています。


 ▲第8版における履歴:2025年4月22日掲載。

 ▲第7版における履歴:2019年9月25日掲載。

2025年4月21日月曜日

行政法講義ノート〔第8版〕への前口上

 2001年3月25日、まだ私が大分大学教育福祉科学部講師であった時に、当時のホームページにおいて行政法の講義ノートを開始しました。それから24年間、多くの方々に利用していただきました。直接、公務員の方、税理士の方などから「わかりやすい」というありがたい評価をいただきましたし、行政書士試験受験者向けのブログなどで、行政法の真髄でもある行政裁量論を扱った箇所に関して非常に好意的な評価をいただくこともできました。

 当初から「法学部に所属していない学生でも、ウェブで手軽に行政法の勉学を進めることができる」ことを目指していました。多少とも実現できたことをうれしく思うとともに、今後も発展し続けなければ、と考えております。

 第6版までは、私が運営していたホームページ(「川崎高津公法研究室」、2024年12月上旬に閉鎖)にアップしていましたが、マイクロソフト社による簡易なホームページ作成用ソフトであるFrontpageおよびExpression Web 4の開発が終了していることから、2019年3月25日より、第7版の掲載はとりあえずブログで行うこととしました。そして、2025年11月に、それまで利用してきたgoo blogが閉鎖することになったため、移転して第8版に改めることとしました。第8版とは銘打っていますが、開始から二度の名称変更を経ていますので、実質的には第10版となります。

 私が大東文化大学において担当してきた講義の範囲は行政作用法総論ですが、ホームページでは当初から、行政作用法総論、行政救済法および行政組織法の基本的な部分を対象としております。これは、行政作用法総論の講義であっても、常に行政救済法や行政組織法の内容を意識しなければならないためです。この点は、実際に行政法学の教科書をお読みになればおわかりでしょう。

 日本に存在する法律の大部分は行政法に属する、と言われます。それだけに、範囲も膨大なものとなりますが、ここでは、初学者の皆様にも取り掛かりやすいように、ごく基本的な部分を扱います。但し、少々突っ込んだ内容となっている部分もあります。これは、公務員試験、行政書士試験などの受験を検討されている方々などのお役に立てば、という思いもあるからです。

 ここで、注意事項を記しておきます。

 1.必ず、六法を手元に置いて読んで下さい。小型の六法で十分ですが、有斐閣の判例六法Professional、三省堂の模範六法などの中型またはそれより収録法令数の多いもの、また、学陽書房の地方自治小六法、ぎょうせいの自治六法などであれば、さらに良いでしょう。なお、六法に収録されていない法令が登場することもありますが、現行法であれば「e-Gov 電子政府の総合窓口」の「法令索引検索」を参照するとよいでしょう。

 2.行政法学に限らず、法律を勉強する際には、判例、実例などの検討を欠くことはできません。そこで、まず、判例解説書の併読をおすすめします。とくに、公務員試験受験を考えられている方は、判例解説書を備えるようにして下さい。そして、実際に、公式判例集などを参照するように努めて下さい。

 この講義においては、斎藤誠・山本隆司編『行政判例百選Ⅰ』〔第8版〕および同編『行政判例百選Ⅱ』〔第8版〕(いずれも有斐閣、2022年)を参考書の一つとします(2分冊になっていますが、1セットと考えてください)。同書にて解説がなされている判例については、ⅠまたはⅡの○○番と記します。 但し、同書(Ⅰ、Ⅱのいずれも)には最高裁判所の判決しか取り上げられていませんので、野呂充・下井康史・中原茂樹・磯部哲・湊二郎編『ケースブック行政法』〔第7版〕(弘文堂、2022年)、下山憲治・田村達久編『判例ライン行政法』(2012年、成文堂)などもおすすめします。

 3.定評のある教科書を併読することをおすすめします。

 4.また、行政法学の基本用語については、このページでも説明を行っておりますが、黒川哲志・下山憲治・日野辰哉編著『確認行政法用語230』〔第2版〕(成文堂、2016年)の併読もおすすめします。

 5.行政法学は、応用的法学の一つとして考えられています。そこで、基礎的な六法(憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法)の学習を済ませておくのが望ましいのです。最低限、憲法、民法および刑法の学習を十分に行って下さい。

 もっとも、法学部以外の学部の学生、さらには法律学に全く触れてこなかったという方もおられるでしょう。そこで、憲法、民法、刑法などの基本的な部分にも触れておきたいと考えています。


 〔これまでの経過〕

 2001年3月25日、「行政法への前奏曲集」として開始する。

 2003年4月1日、「行政法への入口(前奏曲)」と改称。順次、修正・補充などを行う。

 2004年4月16日、「行政法講義ノート」と改称。

 2005年6月28日、第2版として順次改訂。

 2008年5月16日、第3版として順次改訂。

 2011年3月15日、第4版として順次改訂。

 2013年2月20日、第5版として順次改訂。

 2015年9月22日、第6版として順次改訂。

 2019年3月25日、ブログ「ひろば 川崎高津公法研究室別室」において第7版として順次改訂。

 2025年4月21日、ブログ「川崎高津公法研究室」開設(実質的には移転の上で改称)に伴って第8版を開始し、順次改訂。

「ひろば 研究室別室」の移転について

   長らくgoo blogで続けてきましたが、あれこれと考えた結果、2025年8月7日より、はてなブログのほうで書いていくこととしました。何卒よろしくお願い申し上げます。  新しいアドレスは、次の通りです。   https://derkleineplatz8537.hatena...