2025年8月18日月曜日

交通政策基本法の制定過程と「交通権」~交通法研究序説~(大東法学第26巻第2号掲載論文の別ヴァージョン)

 1.交通政策基本法の意義 法律学における関心の薄さ

 公共交通機関の退潮が止まらない。

 もっとも、それは長期的な傾向であるとも言える。1968年に赤字83線問題、1980年の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法制定を受けた特定地方交通線の指定および廃止など、例には枚挙に暇がないため、ここでは、最近の話題としてJR北海道留萌本線の一部区間(留萌〜増毛)の廃止(201612月5日を予定)、JR西日本三江線の存廃問題をあげるに留めておく。

 そのような中で、2007年には「地域公共交通の活性化及び再生に関する法律」(以下、地域公共交通活性化法)が制定された。この法律は「近年における急速な少子高齢化の進展、移動のための交通手段に関する利用者の選好の変化により地域公共交通の維持に困難を生じていること等の社会経済情勢の変化に対応」する必要性などから「地方公共団体による地域公共交通網形成計画の作成及び地域公共交通特定事業の実施に関する措置並びに新地域旅客運送事業の円滑化を図るための措置について定めることにより、持続可能な地域公共交通網の形成に資するよう地域公共交通の活性化及び再生のための地域における主体的な取組及び創意工夫を推進し、もって個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現に寄与することを目的とする」ものである(同第1条第1項)。しかし、この法律に基づいて「地域公共交通網形成計画」を作成する地方公共団体が多数にのぼった一方で、同計画の作成に消極的な地方公共団体も多く、公共交通機関がいっそう衰退することにもつながった(1)

 地域公共交通活性化法の制定および施行により、国の交通全体に関する一般原則や基本理念を定める法律の必要性は、いっそう強く意識されるようになっていた。日本には、鉄道事業法、鉄道営業法、道路運送法、航空法など交通法の領域に含まれる法律が多数存在するが、これらは、鉄道、自動車(道路交通)、船舶、航空のそれぞれの領域に分断されており、国の交通全体に関する一般原則や基本理念を定める法律は、長らく存在していなかった。そのため、統一的な交通政策の形成が行われにくい、などの問題が生じていた。

 国会においては2002年頃から検討が行われていたと言われているが(2)20061213日、細川律夫議員(民主党。以下、職、所属政党などは全て当時のもの)ほか5名により、第165回国会に提出された交通基本法案(衆議院議員提出法律案第6号。以下、第一次交通基本法案)が、法律案として最初に登場したものである。しかし、第一次交通基本法案は閉会中審査を繰り返した上で、第171国会で審議未了のまま廃案となる。その後、第177回国会(2011年)に提出された交通基本法案(内閣提出法律案第33号。以下、第二次交通基本法案)、第183回国会(2013年)に提出された交通基本法案(衆議院議員提出法律案第38号。以下、第三次交通基本法案)が続くが、第二次交通基本法案は、衆議院国土交通委員会における参考人質疑が第180回国会(2012年)において行われたものの、第181回国会(2012年)で審議未了のまま廃案となった。また、第三次交通基本法案は、第185回国会(2013年)において撤回された。結局、第185回国会における内閣提出法律案第17号、すなわち交通政策基本法が国会において可決・成立し、交通政策基本法として201312月4日に公布(法律第92号)、即日施行された。

 交通政策基本法は、第三次交通基本法案の一部を修正する形となっている。その上で、鉄道、自転車、自動車、船舶、航空、さらに徒歩など、交通全般に「関する施策について、基本理念及びその実現を図るのに基本となる事項を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかに」し、「交通に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図ることを目的とする」ものである(第1条)。まさに、国の交通全体に関する一般原則や基本理念を定める法律であり、日本における交通全体の「基本法」となっている。基本理念は第2条ないし第6条に示されており、国は基本理念に従いつつ「交通に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、交通に関する施策に関する基本的な計画」すなわち交通政策基本計画を定めなければならない(第15条第1項。詳細は第2項以下を参照)。また、第16条ないし第31条において国が行うべき施策、例えば「日常生活等に必要不可欠な交通手段の確保等」(第16条)、「高齢者、障害者、妊産婦等の円滑な移動のための施策」(第17条)、「交通の利便性向上、円滑化及び効率化」(第18条)、「運輸事業その他交通に関する事業の健全な発展」(第21条)、「交通に係る環境負荷の低減に必要な施策」(第23条)、「総合的な交通体系の整備等」(第24条)を講じなければならないものとされる。他方、「地方公共団体は、その地方公共団体の区域の自然的経済的社会的諸条件に応じた交通に関する施策を、まちづくりその他の観点を踏まえながら、当該施策相互間の連携及びこれと関連する施策との連携を図りつつ、総合的かつ計画的に実施するものとする」とされている(第32条)。また、第11条により、国民(等)が「基本理念についての理解を深め、その実現に向けて自ら取り組むことができる活動に主体的に取り組むよう努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する交通に関する施策に協力するよう努めることによって、基本理念の実現に積極的な役割を果たすものとする」とされていることも、注目すべき点である。

 個々の規定については批判がありうるものの、全体としては、統一的な交通政策の形成の可能性をもたらすものとして評価することができるであろう。なお、交通政策基本法を受けて、2015年2月13日の閣議決定により、最初の交通政策基本計画が制定されている(3)

 以上のような状況であるが、法律学において、交通法に対する関心は非常に薄い(4)。交通政策基本法が話題になることもほとんどないし、「移動の権利」や「交通権」の位置づけについて、とくに憲法学において論じられることも皆無に近いと評してよい(少なくとも、寡聞にして知らない)。もっとも、1970年に日本交通法学会が設立され、現在に至るまで活動を続けているが(5)、同学会は「交通の円滑・健全化、交通災害・交通公害の絶滅、被害者の完全な救済を希求するあらゆる分野の研究者によって構成され、交通関係法規および交通災害・ 交通公害とこれにともなう補償に関するあらゆる問題を研究討議し、研究者相互の協力を促進することによって、国民の福祉の増進を期そうとする」ことを設立の趣意としており(6)、交通法体系などを研究の対象とする訳ではない。

 その間隙を突こうと試みるのが、本稿(本報告)のもう一つの目的でもある。筆者は行政法学、租税法学および財政法学を専攻し、交通法という領域そのもの、またはその近隣分野(例、行政法各論としての都市法、経済行政法など)を研究する立場にあるが、これまで、正面から交通法を取り上げる業績を公表したことはない。そのため、御指導御鞭撻を賜ることができるならば幸いである。

 本稿(本報告)は、2013年秋の第185回国会(臨時会)において内閣提出法律案第17号として提出され、可決・成立の上で同年12月4日に法律第92号として公布され、即日施行された交通政策基本法を題材とし、その立法過程を検証するとともに、「移動の権利」および「交通権」の意味について、法律学の観点から検討することを目的とする。

 (1) 手嶋一了「地域公共交通活性化再生法の一部改正」自治体法務研究44号(2016年)6頁。

 (2) 国土交通省「交通政策基本法について」(http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport_policy/ sosei_transport_policy_tk1_000010.html)。

 (3) 「国土交通基本計画」(http://www.mlit.go.jp/common/001069407.pdf)。簡単な紹介として、浅野正一郎「地域公共交通をめぐる現状と自治体の役割」自治体法務研究4412頁がある。

 (4) たとえば、この分野に関する体系書は園部敏『交通通信法』(1960年、有斐閣法律学全集15。田中二郎『土地法』および金沢良雄『水法』との合本)のみである。また、最近公刊された行政法の体系書で交通法を取り上げているものとして、友岡智仁『要説経済行政法』(2015年、弘文堂)がある。

 (5) 「日本交通学会とは」(http://www.ja-tl.jp/about.html)による。

 (6) 「日本交通学会設立趣意書」(http://www.ja-tl.jp/files/shuisyo.pdf)による。

 

 2.「移動の権利」および「交通権」の意味

 交通政策基本法および交通基本法案を検証する際に、「移動の権利」または「交通権」の検討を欠かすことはできない。第一次交通基本法案には、第2条第1項として「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な移動を保障される権利を有する」、同第2項として「何人も、公共の福祉に反しない限り、移動の自由を有する」という条文が盛り込まれていたし、「民主党政策集index2009」は「総合交通ビジョンの実現」および「交通基本法の制定」が掲げられ、後者については「『交通基本法』を制定し、国民の『移動の権利』を保障し、新時代にふさわしい総合交通体系を確立します」と宣言されていたからである(7)

 日本において「移動の権利」または「交通権」の語がいつ登場したのかは詳らかでないが、1982年にフランスの国内交通基本法(Loi d’orientation des transports intérieur)が公布されたことが端緒であると思われる。1984年、日本で最初に「交通権」を掲げて争われた事件であるといわれる和歌山線格差運賃返還請求事件が、和歌山地方裁判所の法廷において争われることとなった。安部誠司氏によると、この事件が直接のきっかけとなり、翌年に「交通権を考える会」が設立され、さらに1986年には同会を発展させる形で「日本交通権学会」が発足した(8)

 それでは、「移動の権利」または「交通権」とはいかなるものであろうか。

 日本国憲法には「移動の権利」および「交通権」に関する明文の規定がないので、これらは、まず、「新しい人権」として幸福追求権(憲法第13条)に根拠を求めざるをえない。幸福追求権は、憲法学の通説である人格的利益説によれば「個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体」と理解されるため(9)、「移動の権利」および「交通権」がこれに該当するか否かが問われざるをえない。但し、幸福追求権は、第13条の構造上、個人的法益に限定されることとなる。従って、権利の内容が個人的法益を超える場合には、第13条のみを根拠とすることはできない(10)。「移動の権利」および「交通権」は、人の移動に関する自由権と捉えるならば第22条第1項に根拠を求められ、場合にもよるが「個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利」と言いうる。しかし、「移動の権利」および「交通権」が単なる自由権に留まるものではなく、国や地方公共団体に対して何らかの積極的な施策を求める社会権としての性質を有するのであれば、第25条も併せて根拠とせざるをえない。問題は、両者が法的権利であるとするならば具体的にいかなる内容のものであるか、ということである。

 まずは、初期の代表例として、和歌山線格差運賃返還請求事件(和歌山地判平成3年2月27日判時1388107頁)を見ておく(11)。同事件は、旧国鉄和歌山線(現在はJR西日本の路線)の沿線住民である原告らが、同線が地方交通線に指定され、幹線よりも割高な運賃に設定されたことを不服とし、国有鉄道運賃法が定めていた全国一律賃率制が妥当であるとして、割増運賃分に相当する差額について日本国有鉄道清算事業団に対して不当利得返還請求訴訟を提起したものである。

 原告らは、再抗弁において「国民は、自らの生活をよりよく向上させ、ひいては住みよい国土を建設する手段としての全国的交通網を国家に対して要求する権利を持つものと解される。これは、移動の自由(憲法22条1項)幸福追求権(13条)生存権(25条1項)の集合であり、交通権と称することができる」とし、「国民が国に対し全国的・統一的鉄道網を要求する権利を有することは、鉄道国有法1条及び鉄道敷設法1条に具体化されている」と主張した。

 これに対し、和歌山地方裁判所は原告らの請求を棄却し、判決理由において次のように述べた。

 「憲法の右法条のうち、13条は、憲法の基本的人権に関する総則的規定と解されるところ、その性質はいわゆる自由権に属し、原告らの主張するごとき、国家に対し積極的作為を請求する具体的権利をそこから導くことは困難であるし、仮に、同条がいわゆる社会権的性格を併有するとしても、その内容は極めて抽象的であり、憲法の他の規定または法律を介することなしに、右のような具体的権利を導くことはやはりできないものというべきである。同様に、22条1項も、いわゆる自由権の一として、国家が国民の移転に対して容喙することを拒みうることをその内容とするものにとどまり、原告らの主張するごとき交通権の根拠とはなしがたい。さらに、25条1項の生存権の規定については、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運用すべきことを国家の責務として宣言したにとどまり、個々の国民に対し具体的権利を付与したものではないと解される(最高裁判所昭和23年9月29日大法廷判決刑集2巻101235頁)。したがって、原告らの主張する交通権は、これを原告らの本件請求の根拠となるような具体的権利として考える限り、憲法上根拠づけることはできないものというほかない。/なお付言するに、仮に原告らの主張するごとき交通権を、国家の負う政治的責務の域を超えて、原告らの本件請求の根拠となるような具体的権利として認めるならば、これをすべての国民について等しく認めるべきことは憲法14条から当然のことであるから、たまたま鉄道沿線に居住し、既にその便益を容易に享受できる者だけでなく、いかなる山間あるいは離島等の僻地に居住する者についても、同等の交通手段を、同等の運賃で直ちに提供すべき法律上の具体的義務が国家に課せられることとならざるを得ないが、このような論が非現実的で採りえないことは明らかである。」(/は原文における改行箇所)

 続いて、最三小判平成4年3月3日訟務月報38巻7号1222頁を紹介する。この判決は、道路運送法第98条第2項および同第24条の3(いずれも当時)が、軽車両等運送事業を営む者が軽自動車によるタクシー事業を行うことを禁止することの是非が争われた事件に関するものである(12)

 上告人は、交通権学会編『交通権』(日本経済評論社、1986年)(13)を参照しつつ、和歌山線格差運賃返還請求事件の原告らよりも詳しく「交通権」や「移動の権利」を説明する。すなわち、「交通権とは、全ての国民が自己の意思に従い、自由に移動し、財貨を移動させるための適切な手段を平等に保証ママされる権利であ」り、「憲法22条、同25条、同13条等の憲法上の人権を統合した権利と理解されており、移動の権利は、適切な交通手段の保証によって始めて成立するものである」という。もっとも、「交通権」と「移動の権利」との異同または関係は明らかでないが、上告人は、「交通権は、移動する事に自由という自由権的基本権としての性格を有するとともに、経済活動に資する権利として、生存権的基本権の性格を併せ有するもの」と性格付け、「交通権は、移動の権利として憲法上の基本的人権にまで高められた権利であるから、交通貧困層に対しても平等に適切な交通手段の利用が保証ママされなければならない」と主張した(14)

 これに対し、最高裁判所第三小法廷は、「憲法二二条一項にいわゆる職業選択の自由も、公共の福祉の要請がある限り制限され得るものであるところ、道路運送法(平成元年法律第八三号による改正前のもの)九八条二項、二四条の三の規定が、軽自動車を使用して貨物を運送する軽車両等運送事業を経営する者において有償で旅客を運送することを禁止しているのは、道路運送事業の適正な運営を確保し、道路運送に関する秩序を確立するために必要かつ合理的な制限というべきであって、右規定が憲法二二条一項に違反するものでないことは、最高裁昭和35年(あ)第2854号同3812月4日大法廷判決(刑集17122434頁)の趣旨に徴して明らかである」と判示したが、「交通権」については何も述べていない。道路運送法の当該規定が憲法第22条第1項に違反しないと判断する上で、「交通権」に言及する必要性がないと考えられたためであろう。

 「移動の権利」および「交通権」は、この後にも主張され続けているが、裁判例において主張されることはほとんどないようである。例えば、北総鉄道訴訟第一審判決(東京地判平成25年3月26日判時220979頁)において、原告らは、北総鉄道および千葉ニュータウン鉄道が京成電鉄との間で設定した各鉄道線路使用条件が北総鉄道のみに不利益であり、その結果として北総鉄道の旅客運賃のうち近距離の部分が高額に過ぎるとして、各鉄道線路使用条件設定認可処分や旅客運賃変更認可処分の取消などを求めたが、その際には鉄道事業法が鉄道利用者の利益を個別具体的に保護する旨を主張し、「鉄道事業法16条5項1号及び同法23条1項1号に基づく北総鉄道及び京成電鉄の旅客運賃上限等の変更命令又は同法23条1項4号に基づく北総線路使用条件の変更命令がされないことにより、多額の金銭的負担と移動の自由に対する制限を被るところ、これらの損害は重大であり、金銭によって償うことができないものである」と述べている(15)

 さて、裁判所においては法的権利として認められなかった「移動の権利」および「交通権」であるが、これら(とくに後者)の提唱は続く。第二次交通基本法案の制定のために国土交通省に設置された交通基本法検討会の会合においても、交通権憲章作成委員会によりまとめられ、前文および11箇条からなる「交通権憲章」(1998年版)に依拠したものと思われる「移動の権利」および「交通権」の主張が何度も登場するが、やはり具体的な内容は明らかにされていない(16)

 ここで同憲章を参照すると、前文において、「交通権」は「『国民の交通する権利』であり、日本国憲法の第22条(居住・移転および職業選択の自由)、第25条(生存権)、第13条(幸福追求権)など関連する人権を集合した新しい人権である」と定義される(17)。その上で、「平等性の原則」(第1条)、「安全性の確保」(第2条)、「利便性の確保」(第3条)、「文化性の確保」(第4条)、「環境保全の尊重」(第5条)、「整合性の尊重」(第6条)、「交通基本法の制定」(第11条)などが宣言されている。「交通権憲章」を見る限り、「交通権」の内容は第2条ないし第6条に定められるところであろう。

 岡崎勝彦氏は、同憲章の「『国民の交通する権利』は、『国民が自己の意思に従って自由に移動し、財貨を移動させるための適切な移動手段の保障を享受する権利』と定義され」ると述べ、「交通条件の保障を含む」と説明する(18)。その上で、享有主体を国民とするが、名宛人については「最終的には国(地方公共団体)の責任に帰せられるべきであろう」と述べるのみである(19)

 「交通権」を主張する上でより重要であるのは、その内容である。岡崎氏は、「交通権」の自由権的側面(内容)として憲法第22条第1項により保障される居住・移転の自由をあげ、ここから「居住移転の自由を実質的に保障するための積極的な権利の保障手段の確保のために、『移動手段』を保障内容とする交通権を現代的居住移転の自由として第22条に含ましめる」と展開する(20)。もっとも、第22条はあくまでも自由権を定めるものであり、「我が交通権は、国家権力の発動を求めることによって、積極的に権利の実現を図る『社会権的性格』の権利として把握することもまた可能である」とするには、自由権の規定のみでは無理であることも述べられている(21)

 続いて、岡崎氏は、憲法第13条との関連について「個人の幸福追求が一定の交通条件の下でのみ可能であるとするならば、一定水準の『移動手段』を保障し、形成することは幸福追求権の目標であり、内容でもある」から、同条により「根拠づけられる交通権も生活交通の破壊に対する防禦権としての性格をもつことになる」と述べる(22)。前述した幸福追求権の性質を踏まえた議論ではあるが、公権力の主体である国や地方公共団体(以下、国家権力と記すことがある)からの防禦権ということであれば、憲法第22条第1項による保障もまた含まれうるのであり、第13条と第22条第1項との関係を整理しなければならないであろう。また、「生活交通」を「破壊」する主体は国家権力に限られず、公共交通機関運営会社であることも想定されるが、後者である場合にいかなる防禦権を行使しうるかについては論じられていない。公共交通機関運営会社が民間企業である場合には、憲法の筆者人間効力が問題とされるのであり、第18条などを例外として憲法の人権規定は私人間の法律関係に直接適用されるのではなく、民法第90条などの私法の一般条項を媒介として間接的に適用するしかないが、民間企業にも財産権(憲法第29条第1項)や営業の自由(同第22条第1項を参照)が保障されるという点といかに整合性を保とうとするのであろうか。

 また、岡崎氏は、憲法第25条を引き合いに出し、「交通権」は「公共交通における適切な移動手段の保護が『健康で文化的な最低限度の生活』の要素であるということに着目した社会権的基本権」であり、「『交通弱者』に対する交通権保護を目的とする社会権的基本権でも」あって「その内容は、交通権に対する利用可能性とシビルミニマムの確保を含む普遍的なサービスの提供である」と述べる(23)。同語反復の憾みを免れないが、「何びとによる公共交通の破壊に対しても、公権力による規制により、予防・阻止または回復がなされるよう請求ができなければならない」(24)というのが、「社会権的基本権」としての具体的な内容であろうか。そうであれば、権利主体として認められる範囲も問われる。

 残念ながら、法律学者の目から見るならば、「移動する権利」および「交通権」のどちらも、その意味するところは不明瞭であり、少なくとも現段階においては法律学における権利に値しないと評価せざるをえない。しかも、その状態は和歌山線格差運賃返還請求事件以来、現在に至るまで続いており、進化(深化)がほとんど見られない(25)。仮に法的権利としての性格を認めるとしても、憲法学にいう抽象的権利に留まるのであり、内容の具体化は法律に委ねられざるをえないから、国会の広範な立法裁量が認められることとなり、法的権利としては非常に弱いものと言わざるをえない。

 これは、私のみが主張していることではない。20101115日に開かれた第1回交通基本法案検討小委員会に提出された「『移動権の保障』についてパブリックコメントでいただいたご意見」においては、「移動権の保障の趣旨に反対」する意見が紹介されているが、その中には「そもそも『交通基本法』の立法の趣旨が明確で」なく、「鉄道事業法やバリアフリー法、地域交通活性化法など既存の事業法制ではなく、『移動権の保障』を明記した『交通基本法』でなければ保護されない法益について、未だ明確ではないと考え」られるので、「『移動権』の具体的な内容や『移動権の保障』を規定する必要性などについて、明らかにしていただきたい」という意見や、「交通基本法で保障する『移動権』とはどのようなものなのか? また、最低限度の生活のために保障される『移動権』とはどのようなものなのか? という基本的なところが一向に見えてこない」という意見が見られ、その他の意見を見ても、「移動に関する権利」や「交通権」の意味が不明確なことに由来する様々な疑問が寄せられた(26)

 そもそも、法律学において、権利とはいかなるものであるか。

 法律学においては、権利と義務とをセットにして考える。より精確に記すならば、権利が存在するならば、それに対応する義務が存在すると考える。例えば、A(売主)とB(買主)が売買契約を締結したとする。Aは、Bに対して代金を請求する権利を有し、他方で目的物(品物)を引き渡す義務を負う。逆にBは、Aに対して目的物(品物)を引き渡すように請求する権利を有し、代金を支払う義務を負う。Aが義務を履行しない場合には、Bが裁判所に権利の救済を訴え、訴訟の結果、裁判所が勝訴判決を下すことにより、法的救済を得る。その判決の内容がAによって実現されない場合には、執行官により実現されることとなる。

 これをより一般化するならば、「『権利』とは実定法規範によって個人に一定の個別的・具体的な内容の利益が認められ、それによって個人が相手方(その利益の実現の義務を負う者)にその実現を要求する力を与えられたときに成立」し、「その実現が妨げられた場合には、裁判によりその実現が保障される」ものであると表現することができる(27)。もっとも、利益の個別性・具体性は権利の性質により様々なものでありうるが、少なくとも法的権利というためには「権利主体、権利条項の名宛人、権利の性格および内容等が相当程度具体的に確定しうるものでなければならない」のである(28)

 以上を前提として、「移動の権利」および「交通権」を検討する。そもそも、両者の関係が不明瞭であるが、ここでは便宜上、両者を同義のものとして考えることとする。

 「移動の権利」は、当然のこととして「移動の自由」を内包する。この自由は憲法において明文化されていないが(29)、自由権として承認されうる。その理由として、次の二点があげられる。

 ①権利の主体が我々国民であり、「権利条項の名宛人」が国家権力(などの公権力の主体。以下、国家権力と記す)であることが明確である。

 ②権利の性格、およびその内容(裏返せば義務の内容)が明確である。すなわち、国家権力が我々の移動を侵害することは許されない、ということである。国家権力は、我々の移動を妨害しないという不作為義務を負う。国民は、国家権力に「妨害するな」と請求することができる(従って、権利制が認められる)。仮に国家権力が不作為義務を遵守しないのであれば、裁判所に提訴し、勝訴判決を得ることによって最終的に権利の内容を実現することができる。

 これに対し、「移動の権利」の「移動の自由」以外の部分については、不明確な点が多く、法的権利ということはできない。前述のように、仮に法的権利としての性格を認めるとしても、抽象的権利に留まると言わざるをえない。その理由をあげておく。

 ①権利の主体が国民であるとして、具体的にどの範囲まで認められるのかが明確でない。

 ②名宛人は誰なのかが明確でない。国家権力であるのか、公共交通機関運営会社であるのか。または、いずれでもあるのか。

 ③名宛人が誰かによって「移動する権利」の内容は変わる可能性があるが、具体的な内容、すなわち、誰に対して何を請求できるか、という事柄が全く明らかにされていない。

 仮に民間企業たる公共交通機関運営会社を名宛人とするならば、例えば赤字の鉄道路線を廃止しないように請求するという権利なのか。または、利便性が失われないように減量ダイヤ改正を行わないことを要求する権利なのか。前述のように、公共交通機関運営会社にも財産権や営業の自由という経済的自由権が保障されるのであるから、赤字の鉄道路線について、経営基盤を崩してまで国民(沿線住民等)の請求を受け入れる義務を負わせると解することに合理性はあるのか。おそらく、公共交通機関運営会社にこのような義務を負わせるためには、法律による行政の原理に基づき、法律による根拠を必要とするが、その法律が違憲と判断される可能性も否定できない。

 国家権力を名宛人とするならば、不明確性はいっそう顕著となる。例えば、C社が経営する鉄道路線について、赤字経営を理由としてC社が国土交通大臣に廃止届を提出しようとするならば、住民DはC社が廃止届を提出することを認めないように国土交通大臣に請求することができるのか、または国もしくは地方公共団体)に対し、C社へ補助金を支出するように請求することができるのか。仮にこれらを肯定すると、次は住民間における意見の相違などを無視することになりかねない。鉄道路線の廃止には反対であるが、国または地方公共団体による補助金の支出に反対する住民Eが住民訴訟を提起した場合には、Dは何をしうるのであろうか。

 ここで、法的権利の根拠の一つを憲法第25条に求めることについて述べておく。同条にいう生存権を中心とする社会権の性質には二つの側面があり、国家権力に作為を請求する権利としての性質と、不作為を請求する権利としての性質が認められる。問題となるのは前者であり、少なくとも作為の内容について立法者を拘束しうる程度の具体性を必要とする。

 かつて、憲法第25条は立法府に対して政治的指針や道徳的綱領を示すに過ぎないものであり、法的拘束力を持たないとするプログラム規定説が説かれたことがある。最高裁判所の判例は現在もこの説によるものと考えられるが(最大判昭和42年5月24日民集21巻5号1043頁などを参照)、学説においては抽象的権利説が通説であると考えられる。この説によると、憲法第25条により、国民は生存権を保障される。その意味においては法的権利である。但し、その中身は抽象的であり、同条を直接の根拠として裁判において主張することができない。同条は「国に立法・予算を通じて生存権を実現すべき法的義務を課していることになる」ものの(30)、立法裁量(場合によっては行政裁量)の範囲が広大であるため、権利としての性質は弱い。そもそも、先に示した法律学における権利の定義からすれば、抽象的権利は法的権利と言えないものとなりかねない。

 他方、有力説として具体的権利説がある。この説によれば、憲法第25条は、国、とくに立法府に対して積極的な作為を命ずる規定である。従って、生存権を侵害されている国民は、立法府の不作為に対する違憲確認訴訟を提起することができることとなる。但し、この説は、同条から直ちに何らかの給付に関する具体的な請求権が生ずるとは言えないとする立場と、同条を直接の根拠として具体的な給付請求を可能ならしめようとする立場に分かれる(31)。後者の立場については「社会権規定から論理必然的に権利の具体的内容が導かれるわけでなく、権利の具体化にかかる諸要因を考慮に入れなければなら」ないという指摘が妥当するであろう(32)。そして、この指摘は「移動の権利」および「交通権」を肯定する見解に対しても妥当する。

 以上のような問題を抱える「移動の権利」および「交通権」が、第二次交通基本法案以降、法律の条項として取り入れられなかったのは、当然のことと言いうる。やや不明確な点もあるが、第一次交通基本法案と同様、第二次交通基本法案にも「移動の権利」を定めようとしていたようである。しかし、20101224日の第4回交通基本法案検討小委員会において、時期尚早として見送られることとなった。問題点としてあげられたのは、「移動の権利」の具体的な内容を法律において定義する必要があるが「個々人の移動に関するニーズは、移動目的、個人の属性、地域の特性等の観点から千差万別であり、現時点においては、権利の内容についての国民のコンセンサスが得られているとは言えない状況にある」こと、「移動の権利」を保障するのが行政主体であるとするならば「個々人にそれぞれの権利内容を給付するためには、それを裏打ちするだけの財源が必要とな」ること、「具体的請求権としてはさておき、プログラム規定或いは抽象的な権利とした場合にも、各地において争訟の発生や交通の現場での混乱がもたらされるおそれがある」ことなどである(33)

 (7) 「民主党政策集index200941頁。国土交通省「交通基本法の制定と関連施策の充実に向けて中間整理(平成22年3月)」2頁も参照。

 (8) 安部誠治「交通権学会の15年」交通権学会編『交通権憲章—21世紀の豊かな交通への提言』(1999年、日本経済評論社)ⅲ頁、片岡曻「『交通権憲章』の実現を目指して」ⅱ頁。

 (9) 芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』〔第六版〕(2015年、岩波書店)120頁。

 (10) 芹沢斉・市川正人・阪口正二郎編『新基本法コンメンタール憲法』(2011年、日本評論社)108頁[押久保倫夫担当]。

 (11) 以下、判例集からの引用については、該当頁の注記などを省略する。

 (12) 那覇地方裁判所昭和62年(ワ)第641号平成元年2月22日判決、および福岡高等裁判所平成元年(ネ)第26号平成2年4月26日判決は、いずれも判例集未登載である。このため、事案の詳細は不明である。

 (13) 判決文においては「日本評論社」と誤記されている。なお、同書を参照することはできなかった。

 (14) ここで「交通貧困層」は「適切な公共サービスを条件にかなった費用で利用出来ないため、移動の自由を制限されているグループをいう」と定義されている。

 (15) 結局、原告らの原告適格は認められたものの、請求は棄却された。控訴審判決(東京高判平成26年2月19日訟務月報6061367頁)、上告審決定(最三小決平成27年4月21日判例集未登載。LEX/DB25506316)も参照。

 (16) 例として、20091113日の第1回交通基本法検討会に提出された土居靖範「わが国の交通基本法制定にあたって」(http://www.mlit.go.jp/common/000052180.pdf)、2010年3月1日の第7回交通基本法検討会に提出された特定非営利活動法人全国移動サービスネットワーク「交通基本法検討会に向けての提言」(http://www.mlit.go.jp/common/000109036.pdf)、20101129日の第2回交通基本法案検討小委員会における資料2-1-4「わが国における交通基本法と『交通権』の位置づけについて」(http://www.mlit.go.jp/common/000130170.pdf)を参照。

 (17) 交通権学会編・前掲書2頁による。

 (18) 岡崎勝彦「交通権憲章と憲法」交通権学会編・前掲書10頁。

 (19) 岡崎・前掲書11頁。

 (20) 岡崎・前掲書11頁。

 (21) 岡崎・前掲書11頁。

 (22) 岡崎・前掲書12頁。原文のルビは省略した。

 (23) 岡崎・前掲書12頁。

 (24) 岡崎・前掲書12頁。

 (25) 2012年4月22日の第10回交通基本法検討会において、東日本旅客鉄道株式会社が「民間事業者は、競争市場の中で、それぞれが経済合理性の観点から、路線の存廃をはじめ、運賃・ダイヤの設定、バリアフリー施設を含めた設備整備などの判断を行っています。『移動権の保障』の具体的内容は明確ではありませんが、その一方で、事業者の経営の自主性の確立についてはどのように配慮されるのか、明確にすべきと考えます。あわせて、各交通機関の間における公平な競争環境の維持・確立が図られるようお願いいたします」と述べていることも参考になる〔第10回交通基本法検討会の説明資料11http://www.mlit.go.jp/common/000113173.pdf)による〕

 (26) 第1回交通基本法案検討小委員会の説明資料1-7-1http://www.mlit.go.jp/common/000128776. pdf)による。

 (27) 佐藤功『ポケット注釈・憲法(上)』〔新版〕(1983年、有斐閣)28頁。野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法Ⅰ』〔第5版〕(2012年、有斐閣)158頁、211頁も参照。

 (28) 長尾一紘『日本国憲法』〔第3版〕(1997年、世界思想社)61頁。芹沢・市川・阪口編・前掲書105頁[押久保]も、権利内容が特定できることの必要性を指摘する。

 (29) 憲法第22条第1項は「居住、移転及び職業選択の自由」を保障する。この場合の「移転」は、元々「住所または居所を変更する自由」である〔宮澤俊義(芦部信喜補訂)『全訂日本国憲法』(1978年、日本評論社)253頁。戸松秀典『憲法』(2015年、弘文堂)177頁も参照〕。しかし、「移転」をこのように狭く解釈する必然性もないので、旅行も「移転」に含めるのが、現在では妥当である〔芹沢・市川・阪口編・前掲書204頁[棟居快行担当]も参照〕。

 (30) 芦部(高橋補訂)・前掲書269頁(傍点は原文)。

 (31) 芹沢・市川・阪口編・前掲書218頁[尾形健担当]、およびそこに掲げられた文献を参照。

 (32) 戸松・前掲書341頁。

 (33) 第4回交通基本法案検討小委員会「交通基本法案の立案における基本的な論点について(案)」(http://www.mlit.go.jp/common/000132576.pdf)7頁。

 〇

 3.国会における交通基本法案および交通政策基本法の審査・審議過程

 三次にわたる交通基本法案の提出者の役割を担った民主党は、「民主党政策集index2009」において「総合交通ビジョンの実現」として「①自動車中心の街づくり政策を転換し、路線バスや軌道系交通(鉄道、路面電車、次世代型路面電車システム(LRT)等)を充実②道路を整備する費用をバス事業者等に補助し、サービスが向上するインセンティブを与えることにより移動困難者の利便性を確保③路線バスや軌道系交通機関などのマス・トランスポーテーションを見直し、環境負荷の低減につながるモード(交通機関)の整備」をあげ、交通基本法を制定する理由として「国の交通基本計画により総合的な交通インフラを効率的に整備し、重複による公共事業のムダづかいを減らす」ことや「環境負荷の少ない持続可能な社会を構築する」ことなどをあげていた(34)。一方、民主党が政権に就いて間もない20091113日の第1回交通基本法検討会においては、第二次交通基本法案の策定にあたって、「『コンクリートから人へ』への政策転換の中で、公共交通を維持・再生し、人々の移動を確保するとともに、人口減少、少子・高齢化の進展、地球温暖化対策等の諸課題にも対応するため、交通政策全般にかかわる課題、将来の交通体系のあるべき姿、交通にかかる基本的な法制のあり方等について検討を行う」こととされていた(35)。時間の経過とともに姿勢の変化が見られるようにも思えるが、その後、交通基本法検討会においては大学教員、市町村、社会福祉法人、公共交通機関運営会社からの意見聴取が重ねられ、2010年3月の「交通基本法の制定と関連施策の充実に向けて中間整理」(以下、「中間整理」)においては、車社会がの進展が「交通の格差社会」の進展や地球温暖化の深刻化につながるとして、第二次交通基本法案の趣旨および目的を「私たちの暮らすまちを、自転車、バス、路面電車、鉄道などが充実した『歩いて暮らせるまち』に」転換すること、そのために地域公共交通を維持・再生し、活性化することとするに至った(36)

 しかし、「中間整理」に対する自動車業界からの反発は大きいものであった。日本自動車工業会委員長の大山龍寛氏は地方での自動車の必要性の高さや主要な移動手段としての地位、道路整備の充実の必要性などを主張した(37)。また、全日本自動車産業労働組合総連合会会長の西原浩一郎氏は、自動車(自家用車)から公共交通機関への転換ではなく両者の共存ないし役割分担こそが必要であること、「今後も特に地方においては、くるまは重要な交通手段としての役割を担う」ことから自動車関連租税の簡素化および軽減を求めた(38)

 その後、交通基本法案検討小委員会においていかなる調整が行われたのか、詳らかでない部分もあるが、「中間整理」に書かれていた、自家用車から公共交通機関の利用への転換や地域公共交通の維持・再生ないし活性化という趣旨および目的は薄められていく(39)。そして、第二次交通基本法案の第5条第1項は交通手段の適切な役割分担と連携を定めるに至った。この規定は第三次交通基本法案の第5条第1項としてそのまま残り、さらに交通政策基本法の第5条第1項としてそのまま取り入れられ、交通政策基本法の基本理念の一つともなる。

 第二次交通基本法案は第181回国会で審議未了により廃案になり、第183回国会に第三次交通基本法案が提出される。これは第二次交通基本法案に若干の修正を施したものであり、基本的な内容に変化はない。しかし、第183回国会および第184回国会(2013年)で審査は行われず、第185回国会でようやく付議された。一方、交通政策基本法案は、2013111日の閣議決定を経て(40)185回国会に内閣から提出されたが、第三次交通基本法案を土台にしつつ、与党側の政策に合わせるための修正を施したものである。いずれも、201311月8日、衆議院国土交通委員会(第4号)において提案理由の説明が行われ、同月12日(第5号)において双方を一括した上での参考人質疑が行われた後に第三次交通基本法案は撤回される。事情の詳細は明らかでないが、自由民主党・公明党連立政権も交通基本法案の重要性を認識していたものと思われ、最初から案を作成し直すのではなく、第三次交通基本法案を利用することなどについて与野党間での調整が行われ、実質的な一本化がなされたものと考えられる(41)。実際に、同月13日(第6号)、三日月大三議員は「政権再交代の後も、ある意味ではいろいろな感情や考えの違いを乗り越えて法律を提出いただいているということにつきましては、(中略)政府が提出をしてこられました交通政策基本法案、中身を検討したところ、私どもが考えていた法案と100%同じではありませんけれども、ほぼ同趣旨の内容である」と述べている(42)。また、辻元清美議員は「交通政策基本法という、最も社会にとって大事な一つの基盤である交通についての憲法のような大きな法律、これは一日も早く成立をさせたいと私自身も思っておりましたし、今回、民主党、社民党も提出しておりましたが、政府が交通政策基本法ということで、今まで私たちが求めてきた法案、さらに補充もしていただいて御提出いただき、賛成の立場」に立つ旨を述べている(43)。結局、衆議院国土交通委員会においては、穀田恵二議員(日本共産党)が提案した修正案(44)は否決され、交通政策基本法案が賛成多数で可決された(自由民主党、民主党・無所属クラブ、日本維新の会、公明党およびみんなの党の共同提案による附帯決議も同様)。交通政策基本法案は1115日の衆議院本会議においても賛成多数で可決された(45)

 参議院では、まず、1121日の国土交通委員会(第7号)において提案理由の説明が行われ、同月26日(第8号)に参考人質疑が行われた後、吉田忠智議員(社会民主党・護憲連合)が「移動の権利」を法律案に盛り込むべきであった旨を質したのに対し、西脇隆俊政府参考人(国土交通省総合政策局長)は、交通政策基本計画の策定の際に交通政策審議会や社会資本整備審議会の意見を聴くとともにパブリック・コメントを活用したい旨を答えている(46)。同委員会では辰已孝太郎議員(日本共産党が)が反対討論を行ったものの、賛成多数で可決された(自由民主党、民主党・新緑風会、公明党、日本維新の会および社会民主党・護憲連合の共同提案による附帯決議も同様)。交通政策基本法案は、1127日の参議院本会議(第10号)において賛成217、反対12で可決し、成立した(47)

 (34) 「民主党政策集index200941頁。

 (35)  第1回交通基本法検討会「交通基本法検討会について」(http://www.mlit.go.jp/common/000052178.pdf

 (36) 国土交通省「交通基本法の制定と関連施策の充実に向けて中間整理(平成22年3月)」2頁。

 (37) 13回交通基本法検討会(2010年6月7日)に提出された日本自動車工業会「くるま社会のあり方交通基本法とこれからの自動車交通」(http://www.mlit.go.jp/common/000115925.pdf)。

 (38) 13回交通基本法検討会(2010年6月7日)に提出された西原浩一郎「交通基本法制定に向けた自動車総連としての考え方について」(http://www.mlit.go.jp/common/000115927.pdf)。

 (39) 第4回交通基本法案検討小委員会「交通基本法案の立案における基本的な論点について(案)」(http://www.mlit.go.jp/common/000132576.pdf)を参照。

 (40) 国土交通省「交通政策基本法について」(http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport_policy/ sosei_transport_policy_tk1_000010.html)。

 (41) 「第185回国会衆議院国土交通委員会議録第6号」1頁も参照。

 (42) 「第185回国会衆議院国土交通委員会議録第6号」1頁。三日月議員は、第三次交通基本法案の提出者の一人であり、交通基本法検討会には国土交通政務官として出席した。

 (43) 「第185回国会衆議院国土交通委員会議録第6号」4頁。また、辻元議員は、第一次交通基本法案が「ボトムアップの法案」で「現場で働く労働者の方々からまず声が上がった」とも述べている(同頁)。なお、同議員は、交通基本法検討会には国土交通副大臣として出席していた。

 (44) 「第185回国会衆議院国土交通委員会議録第6号」(平成251113日)20頁。この修正案には、第一次交通基本法案第2条と全く同じ文言の第2条を盛り込む趣旨が含まれている。

 (45) 「第185回衆議院会議録第10号」(官報号外、20131115日)3頁。

 (46) 「第185回参議院国土交通委員会会議録第8号」(20131126日)29頁。

 (47) 「第185回参議院会議録第10号」(官報号外、20131127日)19頁。

 

 4.第三次交通基本法案と交通政策基本法の異同

 三日月議員も指摘したように、第三次交通基本法案と交通政策基本法案は、基本的な部分で趣旨を同じくするとも言いうるが、無視できない差異があり(48)、後者は前者が多少なりとも変質したものであると考えるべきであろう。逐条的な研究は別の機会に行うこととして、以下、簡単に検討する。

 〔1〕第三次交通基本法案第2条は「国民等の交通に対する基本的な需要の充足」という見出しの下、「交通は、国民の自立した日常生活及び社会生活の確保、活発な地域間交流及び国際交流並びに物資の円滑な流通を実現する機能を有するものであり、国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図るために欠くことのできないものであることに鑑み、将来にわたって、その機能が十分に発揮されることにより、国民の健康で文化的な最低限度の生活を営むために必要な移動その他国民等(国民その他の者をいう。以下同じ。)が日常生活及び社会生活を営むに当たり必要な移動、物資の円滑な流通その他の国民等の交通に対する基本的な需要が適切に充足されなければならない。」とされていた。ここには「移動の権利」の痕跡が残されている。これに対し、交通政策基本法第2条は、見出しを「交通に関する施策の推進に当たっての基本的認識」と改めた上で、下線部を「国民その他の者(以下「国民等」という。)の交通に対する基本的な需要が適切に充足されることが重要であるという基本的認識の下に行われなければならない。」と変更している。附帯決議が言うように、高齢者、障害者、妊産婦等のものが「日常生活及び社会生活を営むに当たり必要な移動」に「最大限配慮すること」が求められることになるであろう(49)

 〔2〕第三次交通基本法案第3条は、「交通に関する施策の推進は、交通が、国民の日常生活又は社会生活の基盤であること、国民の社会経済活動への積極的な参加に際して重要な役割を担っていること及び経済活動の基盤であることに鑑み、我が国における近年の急速な少子高齢化の進展、エネルギーに関する国内外の情勢の変化、情報通信の高度化その他の社会経済情勢の変化に対応しつつ、交通が、豊かな国民生活の実現に寄与するとともに、我が国の産業、観光等の国際競争力の強化及び地域経済の活性化その他地域の活力の向上に寄与するものとなるよう、その機能の確保及び向上が図られることを旨として行われなければならない。」としていた。交通政策基本法第3条第1項は下線部を削除した形で定められている。これは現在の連立政権のエネルギー政策等による変更とみられる。

 〔3〕第三次交通基本法案第7条は、「大規模災害発生時における交通の確保」という見出しの下、「交通に関する施策の推進は、大規模な災害が発生した場合にも必要な交通が確保されるようにすることを旨として、行われなければならない。」としていた。これに対し、交通政策基本法第3条第2項は、「交通の機能の確保及び向上を図るに当たっては、大規模な災害が発生した場合においても交通の機能が維持されるとともに、当該災害からの避難のための移動が円滑に行われることの重要性に鑑み、できる限り、当該災害による交通の機能の低下の抑制及びその迅速な回復に資するとともに、当該災害の発生時における避難のための移動に的確に対応し得るものとなるように配慮しなければならない。」と定める。いずれも東日本大震災の経験に由来する規定と考えられるが、交通政策基本法第3条第2項のほうが詳細なものとなっている。

 この規定と関連づけて読まなければならないのが、交通政策基本法第22条である。同条は、「大規模な災害が発生した場合における交通の機能の低下の抑制及びその迅速な回復等に必要な施策」という見出しの下、「国は、大規模な災害が発生した場合における交通の機能の低下の抑制及びその迅速な回復を図るとともに、当該災害からの避難のための移動を円滑に行うことができるようにするため、交通施設の地震に対する安全性の向上、相互に代替性のある交通手段の確保、交通の機能の速やかな復旧を図るための関係者相互間の連携の確保、災害時において一時に多数の者の避難のための移動が生じ得ることを踏まえた交通手段の整備その他必要な施策を講ずるものとする。」と定める。後半部分は、同じ第185回国会で成立した「強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靱化基本法」(平成251211日法律第95号)の影響がうかがえる(50)。なお、第三次交通基本法案第29条は「災害発生時における交通の支障の防止等」を定めるものとなっていたが、交通政策基本法第22条のほうが規定対象を広くとっている。

 〔4〕第三次交通基本法案第12条は、「国民の責務」という見出しの下、「国民は、基本理念についての理解を深め、その実現に向けて自ら取り組むことができる活動に主体的に取り組むよう努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する交通に関する施策に協力するよう努めるものとする。」としていた。これに対し、交通政策基本法第11条は、「国民等の役割」という見出しに変更し、下線部を「努めることによって、基本理念の実現に積極的な役割を果たすものとする。」と改めた。国、地方公共団体、交通関連事業者および交通施設管理者については「責務」とするのに対し(第8条ないし第10条)、「国民等」について「役割」としたことの意味は、必ずしも明らかではない。

 〔5〕第三次交通基本法案第16条、交通政策基本法第15条は、いずれも交通政策基本計画に関する規定であるが、交通政策基本法第15条第5項(意見等公募手続の規定)および第6項(交通政策審議会および社会資本整備審議会の意見を聴取することを義務づける規定)に相当する規定は第三次交通基本法案第16条に置かれていない。

 〔6〕第三次交通基本法案第20条は「交通関連事業従事者の育成及び確保等」を定めていた。これに対応するのが交通政策基本法第21条であると思われるが、見出しが「運輸事業その他交通に関する事業の健全な発展」に改められた上で、国が「運輸事業事業基盤の強化、人材の育成その他必要な施策を講ずるもの」とされている。

 〔7〕第三次交通基本法案第21条は「国際競争力の強化及び地域の活力の向上に必要な施策」を定めていたが、交通政策基本法は「国際競争力の強化に必要な施策」に関する規定を第19条に、「地域の活力の向上に必要な施策」を第20条に定め、趣旨を明確化している。いずれも、自由民主党・公明党連立政権が最重要課題の一つとする経済再生、「三本の矢」のうちの「民間投資を喚起する成長戦略」に関連づけられるものと考えてよいであろう。また、第20条については「地方創生」政策とも結びつけられうるものと思われる。他方で、第三次交通基本法案第21条には「既存の交通施設の有効活用等を図りつつ」という条件が示されているが、交通政策基本法第19条、同第20条のいずれにもこの文言はない。「建主改従」「改主建従」ではないが、第三次交通基本法案第21条には公共事業に対する一定の歯止めとしての効果が意図されていたとするならば、交通政策基本法第19条および第20条にはその歯止めが盛り込まれていない、と解することも可能である。

 〔8〕第三次交通基本法案第23条、交通政策基本法第24条のいずれも「総合的な交通体系の整備案」に関する規定であるが、交通政策基本法第24条第2項は「国は、交通に係る需要の動向、交通施設の老朽化の進展の状況その他の事情に配慮しつつ、前項に規定する連携の下に、交通手段の整備を重点的、効果的かつ効率的に推進するために必要な施策を講ずるものとする。」と定めるのに対し、第三次交通基本法案第23条第2項には「施設の老朽化の進展の状況」が記されていない。

 〔9〕交通政策基本法第29条は、「国は、情報通信技術その他の技術の活用が交通に関する施策の効果的な推進に寄与することに鑑み、交通に関する技術の研究開発及び普及の効果的な推進を図るため、これらの技術の研究開発の目標の明確化、国及び独立行政法人の試験研究機関、大学、民間その他の研究開発を行う者の間の連携の強化、基本理念の実現に資する技術を活用した交通手段の導入の促進その他必要な施策を講ずるものとする。」と定める。同じ趣旨の規定が第三次交通基本法案第27条であったが、下線部は記されていない。

 〔10〕交通政策基本法第28条は調査研究に関する規定であるが、第三次交通基本法案には相当する規定が存在しない。

 〔11〕第三次交通基本法案第28条は、「国際的な連携の確保及び国際協力の推進」の下、「国は、交通に関する施策を国際的協調の下で推進することの重要性に鑑み、交通に関し、国際的な規格の標準化その他の国際的な連携の確保並びに開発途上地域に対する技術協力及び人材の派遣、外国において災害が発生した場合の交通施設の復旧等の支援その他の国際協力を推進するため、必要な施策を講ずるものとする。」としていた。

 これに対し、交通政策基本法第30条は、やはり「国際的な連携の確保及び国際協力の推進」という見出しの下、「国は、交通に関する施策を国際的協調の下で推進することの重要性に鑑み、交通に関し、我が国に蓄積された技術及び知識が海外において活用されるように配慮しつつ、国際的な規格の標準化その他の国際的な連携の確保及び開発途上地域に対する技術協力その他の国際協力を推進するため、必要な施策を講ずるものとする。」と定める。この規定は同第19条と関連づけて解釈すべきものであり、提案者または政権の性格の相違がよく現れていると考えられる。自動車産業のみならず、例えば新幹線などの高速度鉄道の技術の輸出を念頭に置いた規定であると考えられる。また、リニアモーターカーを想定したものかもしれない。

 (48) 提案理由の相違については「第185回国会衆議院国土交通委員会議録第4号」(201311月8日)12頁を参照。

 (49) 「第185回国会衆議院国土交通委員会議録第6号」19頁、「第185回参議院国土交通委員会会議録第8号」31頁。

 (50)  国土交通省「交通政策基本法について」(http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport_policy/sosei_transport_policy_tk1_000010.html)も参照。

  

 5.今後の課題

 交通政策基本法が制定され、国の交通全体に関する一般原則や基本理念が定められ、国および地方公共団体の責務が明らかにされることにより、国または地方公共団体による統一的な交通政策の形成の可能性がもたらされた。しかし、それはあくまでも可能性である。行政法学において、計画策定における行政庁(行政機関)の裁量は幅広く認められると解されるのが一般的であるため、交通政策基本法第11条に定められる「国民等の役割」が実際に何処まで発揮されうるかは、未知数である。

 他方、交通政策基本計画は、策定ないし公告によって私人の権利行使に対して制約を加えるもの(51)ではない。また、計画の内容を概観すると、他の行政機関(国)または地方公共団体を拘束するものとまでは言えず、国全体や地方公共団体などに対する指針を定めるに留まるものと理解すべきであろう。従って、交通政策基本計画には国民に対する法的拘束力はなく、事実行為に留まるため、仮に違法または不当な点があるとしても「処分」としての性格がなく、審査請求または取消訴訟を提起することはできない(行政不服審査法第1条、行政事件訴訟法第3条第2項を参照)。

 交通政策基本計画の策定に際しては、行政手続法第38条以下に定められる意見公募手続が行われ、国民の幅広い意見が反映される機会が設けられた。今後も、計画策定に際しては同じ手続がとられなければならない。従って、同計画の妥当性について意見を述べ、多少なりともその意見を反映させるには、現在のところ、意見公募手続以外に方法がない。

 一方、筆者は、本稿(本報告)において「移動の権利」および「交通権」に対して否定的な見解を述べた。これはあくまでも法律学的な意味における権利としての性格についてであり、一種の運動論的、またはスローガン的な意味合いまで否定した訳ではない。しかし、交通政策基本法が施行されてからは、今後の状況次第ではあるが、両者の法律学的な意味を深め、具体的な権利としての性格を与えることが、法律学者の役割として期待されることになるであろう。

 (51)  例、都市計画法第7条による市街化区域および市街化調整区域の設定。

 〇

  〔付記〕

 本稿は、2016年7月25日、公益財団法人地方自治総合研究所の「地域公共交通研究会」(主査:武藤博己法政大学教授)における報告「交通政策基本法と『交通権』〜法律学的観点からの序説的検討〜」の草稿に加筆修正を施したものである。また、筆者は同研究所の「地方自治関連立法動向研究会」のメンバーであり、元々、交通政策基本法(交通基本法案)を「地方自治関連立法動向研究会」における研究の題材の一つとして、微々たるものではありながら研究を進めていた。同研究所の関係各位、とくに、上記の両研究会のメンバーであり、当日の報告の機会を与えてくださった其田茂樹氏(同研究所研究員)に、この場を借りて感謝を申し上げる。


             (2017年9月11日掲載、2025年8月18日再掲載)

2025年8月12日火曜日

「ひろば 研究室別室」の移転について

  長らくgoo blogで続けてきましたが、あれこれと考えた結果、2025年8月7日より、はてなブログのほうで書いていくこととしました。何卒よろしくお願い申し上げます。

 新しいアドレスは、次の通りです。

 https://derkleineplatz8537.hatenablog.com/

 何卒お見知りおきを。なお、ブログの名称を少し変えました。

 法学部長となってから5か月が経過しました。8月に入ってから多少ともゆっくりできるのかな、と思っていたのですが、そうでもなかったのでした。

2025年8月2日土曜日

第5回 行政法上の法律関係

 権利主体相互間に生ずる法律上の関係を、法律関係という。このように定義づけたとき、「行政法関係」とは、行政法によって規律される法律関係のことである。行政法上の法律関係ともいう。ここで再び、公法と私法との区別が問題となる。まず、公法と私法との区別を前提にして、議論を進める(なお、両者の区別は相対的であるというのが一般的である)。

 行政上の法律関係という場合、公法関係と私法関係とが存在することが基礎となっている。私法関係が私人相互間の関係におけるものと同一の規律による支配を受ける関係であり、これが一般的であるとするならば、公法関係は特殊なものである。そして、公法関係は権力関係と管理関係とからなる。

 (1)公権論

 国や地方公共団体と私人との間に権利が存在する(憲法における基本的人権は、まさにこの類のものである)。この権利を公権という場合もあるが、普通、公権は私法上の権利(私権)と異なるものという意味において用いられる。

 代表的な見解によれば、公権とは「公法関係において、直接自己のために一定の利益を主張しうべき法律上の力をいう」〈田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1976年、弘文堂)24頁〉。私人が自らの利益として主張しうる点において、「法が単に国又は個人の作為・不作為を規定していることの結果として生ずる反射的利益」とは区別される〈田中・前掲書84頁〉。国家的な公権として、警察権、課税権、統制権などがあげられ、個人的な公権として、参政権、受益権、自由権、平等権があげられる。以上は基本的人権と類似する分類であり、受益権は行政訴訟を提起する権利、生活保護請求権などを含む。

 公権は、公益上の見地から与えられるものとされる。そのため、公権が有する特色として、相対性(絶対不可侵性を有しない)、放棄不能性(不行使は自由であるが、放棄することはできない)、専属性(他人に移転したり、その権利を差し押さえたりすることは許されない)があげられる。

 しかし、この公権論は、現在、それほど強力に主張されている訳ではない。第一に、公法・私法二分論の妥当性に対する疑問があげられる。第二に、公権に独自性を認めがたい。例えば、相対性は、土地所有権などの私権にも見られる。専属性というのであれば、親権や夫婦間の権利にも認められなければならない(認められないとしたら訳のわからないことになる)。第三に、その内容が豊かでないことがあげられる。手続法上の権利(申請、聴聞、文書閲覧などに関する)なども、現在においては認められる傾向にあるし、認められなければならない。

 (2)権力関係と管理関係

 公法関係は権力関係と管理関係とからなることは前述した。ここで両者について説明する。

 権力関係(支配関係ともいう)は、国または公共団体が、法律上、優越的な意思の主体となって相手方たる私人に対するものであり、本来的な公法関係とも称される。行政行為などに見られる。「公権力の行使」とは、行政庁が私人に対して、法律に基づいて一方的に計画し、命令し、給付し、一定の法律関係を形成し、指導し、強制する活動の総称である。個別的な行政法規に、根拠規定を必要とする。行為規範を欠く場合、あるいは行為規範に違反する公権力の行使は、違法であって、効力を生じないのが原則である。

 或る行政作用が公権力の行使にあたるか否かの判定は、公権力の行使については、実体法上「法の規則」が強く要請される(行政行為論の中心的課題)、公権力の行使は、手続法上「行政手続」の要請に応ずるものであることを要する、公権力の行使は、「抗告争訟」(抗告訴訟、行政不服申立てなど)の対象となる、という三点と関連する。

 管理関係は、伝来的な公法関係とも称され、国または公共団体が公的事業または公的財産の管理主体として私人に対する場合を指す。この場合、私法関係に類似するが、公共の福祉との関係上、私法関係と異なる法的規律に服する。行政作用法において、民商法に見られない特例が多く設けられる他、行政救済法において、行政事件訴訟法第4条・第39条以下に定められる当事者訴訟が用意されている(もっとも、あまり活用されていない)。

 一応は上記のように説明できるが、先にも触れたように、権力関係だから民法の適用が排除されるという訳でもなく、管理関係だから民法の適用が排除されないという訳でもない。

 (3)特別権力関係論

 租税関係など、国民一般が国や地方公共団体の権力に服する関係が存在する。これが一般権力関係である。これを前提とするならば、特別権力関係とは、特別の公法上の原因(法律の規定または本人の同意)によって成立する、公権力と国民との特別の法律関係をいう。特別権力関係の理論は、公務員の勤務関係、国公立大学の在学関係、在監関係など、性質の異なる法律関係を、或る国民が公権力に服従するという関係として捉えている(それがそもそも問題である)。

 特別権力関係の中身として、公権力は包括的支配権(例、命令権、懲戒権)を有するから、個々の場合には法律の根拠がなくとも私人を包括的に支配できる(ここから、法治主義の排除ということが導かれる)、公権力は、私人に対し、一般国民として有する人権を制限できる、この関係の内部における公権力の行為は原則として裁判所の審査に服さない、と主張された。

 しかし、日本国憲法の下で、「特別権力関係」論はそのままで維持されえない。日本国憲法の下、実務上は修正された特別権力関係理論が維持されているが、最高裁判例は、行政事件訴訟の限界という観点から、特別権力関係を体系的かつ包括的に措定していない。むしろ、一般的外部関係に対する意味での個別的内部関係ないし部分社会的関係の存在を肯定しているにすぎないように見える(もっとも、特別権力関係を完全に否定しているとも言えない)。こうしてみると、「特殊自律的内部関係」は、公法私法の区別と無関係に、学校や宗教団体などの内部における自治自律的関係ないし専門的技術的関係から、一般社会の外部的関係と区別されて取り扱われるものであることになろう。

 ●公務員の人権

 国家公務員の政治活動の自由は、国家公務員法第102条および人事院規則14-7により制限されている。また、公務員・国営企業職員は、労働基本権が制限される(国家公務員法第98条第2項、地方公務員法第37条、国営企業労働関係法第17条など)。具体的には、警察職員・消防職員・自衛隊員・海上保安庁・監獄に勤務する者には、労働基本権全て(団結権・団体交渉権・争議権)が否定される。非現業の一般公務員には、団体交渉権と争議権が否定される。郵便などの現業の公務員には、争議権が否定される。

 初期の判例は、「公共の福祉」および「全体の奉仕者」を理由として、簡単にこれらの制限を合憲としていた(特別権力関係論の影響であろう)。最大判昭和41年10月26日刑集20巻8号901頁(全逓東京中郵事件)は、公務員の労働基本権を尊重する立場を採った。この流れは、最大判昭和44年4月2日刑集23巻5号305頁(都教組事件)にも受け継がれた(合憲限定解釈を用いた)が、最大判昭和48年4月25日刑集27巻4号547頁(全農林警職法事件)によって再度転換された。この判決は、一律かつ全面的な制限を合憲とした。また、公務員の政治活動の自由に対する制限については、最大判昭和49年11月6日刑集28巻9号393頁(猿払事件)がある。

 しかし、公務員の人権は、法律や条例により、勤務条件(俸給など)が詳細に規定されている。労働基本権の制約についても、法律の規定に基づいているのであり、特別権力関係によって説明する必要はないと思われる(特別権力関係理論の影響を否定しえないとしても)。

 もっとも、最大判昭和29年9月15日民集8巻9号1606頁、および最二小判昭和32年5月10日民集11巻5号699頁※は、公務員の勤務関係が特別権力関係であることを肯定する。その上で、このような関係の下で懲戒処分や専従休暇不承認処分を、司法権審査が及ぶものとした。その条件として、裁量者による処分が事実無根かあるいは著しい濫用と認められるとき、法的統制の実効性を保障する必要があるとき、としている。

 前掲最大判昭和29年9月15日および最二小判昭和32年5月10日は、公務員の懲戒処分と裁量審査との関係におけるリーディングケースでもある。最三小判昭和52年12月20日民集31巻7号1101頁(Ⅰ―80。私が解説を担当している)も参照されたい。

 ●在監関係

 在監関係についても、憲法第18条および第31条により在監者にも基本的人権が保障される以上、特別権力関係がそのまま妥当すると考えるべきではない。しかし、在監者に基本的人権が全て保障されるという考え方は、常識にも反するし、懲役などの目的などとも矛盾する。在監者の基本的人権を制限する目的は、拘禁と戒護(逃亡・証拠隠滅・暴行や殺傷の禁止・規律維持など)そして受刑者の矯正教化ということを達成するためにあるから、その範囲における必要最小限度の制限が必要である。

 この点に関して、最大判昭和45年9月16日民集24巻10号1410頁は、喫煙の禁止を定めた監獄法施行規則第96条の法律上の根拠が問題となった事案に対し、監獄法施行規則第96条を憲法違反でないとしたが、このような制限は法律で定めるべきであるという批判が強い。

 「よど号」ハイジャック記事抹消事件最高裁判決(最大判昭和58年6月22日民集37巻5号793頁)は、監獄内における規律・秩序が放置できない程度に害される「相当の具体的蓋然性」が予見される限りにおいてのみ、監獄長による新聞記事抹消処分が許されるとの基準を示したが、その判断について監獄長の裁量判断を尊重している点には問題もある。その他、監獄法第50条・同法施行規則第130条による「信書の検閲」は憲法第21条に違反しないとする判決もある(最一小判平成6年10月27日判時1513号91頁)。

 ●地方議会の内部規律

 自律的な法規範をもつ社会ないし団体において当該規範の実現を内部規律の問題として自治的措置に任せるのを良とし、裁判によって判断するのを適当としない事柄が存在する。最大判昭和35年10月19日民集14巻12号2633頁(Ⅱ―152)は、こうした見地から、地方議会議員に対する出席停止という懲罰議決は司法審査の対象外とした。なお、除名の場合は、議員身分の喪失(ある意味で一般社会との外部的関係である)に関する重大事項として司法審査が及ぶとする。

 ●大学と学生との関係  国公立・私立を問わず、学校は学生の教育という特殊な目的を有する。よって学校は一般市民社会と異なる部分社会である。そのため、その目的の達成に必要な限度内において(法令がなくとも)学校側に包括的支配権が認められ、教育的裁量が認められることについて異論はない。また、私立学校の利用関係は私法上の契約関係であることは、争いのないところであろう。国公立大学については、特別権力関係と解するのが通説である。これは、国立または公立大学が営造物(公共施設)であることからみれば、例外であることになる。最大判昭和29年7月30日民集8巻7号1501頁、最小三判昭和52年3月15日民集31巻2号234頁(Ⅱ―145)は、単なる単位認定が司法審査の対象外であり、一般市民秩序と直接の関係を認められる特段の事情があるときのみ、司法審査が及ぶとする(懲戒処分についても同様)。


 ▲第7版における履歴:2020年4月30日掲載。

 ▲第6版における履歴:2015年11月11日掲載。2017年10月26日修正。 2017年12月20日修正。

2025年8月1日金曜日

第3回 憲法と行政法

 1.憲法を具体化するものとしての行政法という理念

 行政法の成文法源とされるものは、憲法、条約、法律、命令、条例、地方公共団体の長の規則である。このうち、憲法は国家の基本的な法であり、かつ、最高法規であるため、行政法の法源としても最高の地位を占めるものである。そればかりでなく、少なくとも立憲主義の理念に即して考えるならば、「行政および行政法は本質的にその時代の憲法によって決定される」のであり、行政法は憲法を具体化するものでなければならないのである。

 引用は、Hartmut Maurer / Christian Waldhoff, Allgemeines Verwaltungsrecht, 19. Auflage, 2017, §2 Rn.1からのもので、私が訳した(下線部は、原文における斜体字による強調箇所である)。行政法が憲法を具体化するものでなければならないということは、ドイツ連邦行政裁判所長官であったヴェルナー(Fritz Werner)の論文「具体化された憲法としての行政法」(Verwaltungsrecht als konkretisiertes Verfassungsrecht, DVBl. 1959, 527)によって述べられ、ドイツでは一般的に承認されている。


 2.国民主権の原理 

 日本国憲法は、前文および第1条において国民主権原理を明示する。これを具現化するために、例えば権力分立主義が採用されるのである。また、国民主権原理を実現するためには、主権者たる国民の全体に、国の情報、端的に言えば政府が保有する情報が共有され、少なくとも常に入手が可能な状態になっていなければならないはずである。

 後の回において詳しく述べたいが、日本の憲法学や行政法学における情報公開請求権に関する議論は、国民原理主義の具体化という側面においてあまりに不十分である。櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕(2006年、有斐閣)14頁の記述も、情報提供に留まっている。理念であるとしたらあまりに不十分であろう。その点において、山崎正『住民自治と行政改革』(2000年、勁草書房)56頁注(4)および132頁の記述は示唆に富む。拙稿「大分県における情報公開(1)―大分地方裁判所平成12年4月3日判決の評釈を中心に―」大分大学教育福祉科学部研究紀要第22巻第2号(2000年)427頁を参照。なお、櫻井敬子・橋本博之『行政法』〔第6版〕(2019年、弘文堂)230頁を参照。

 国民主権原理については、既に憲法学の講義などにおいて扱われているはずである。以下、憲法の復習を兼ねるという意味合いを込め、重複することを承知の上で説明を行う。  国民主権と民主主義とは、一般的に同義の言葉として扱われる。しかし、国民主権は法律学的な概念であり、主権の所在を示すものであるのに対し、民主主義は、政治の在り方についての政治思想的な概念である。但し、国民主権は、民主主義の中に含まれると解することもできる。

 橋本公亘『日本国憲法』〔改訂版〕(有斐閣、1988年)85頁を参照。

 民主主義は、個人の尊厳を最高の価値とする。そのため、国家における「支配者と被支配者との自同性(Identität)」が要求されることになる。これが実現されなければ、国民主権の意味がないということになる。

 国民、主権のいずれも、一般的に理解しうる語であり、日本国憲法においても用いられる。しかし、実際には、条文により意味を異にする。この点に注意しなければならない。国民主権という場合の主権は、国の最高の意思、国の政治の在り方を最終的に決定する権力、換言すれば最高決定権を意味する。日本国憲法は、このような最高決定権を国民が行使するということを宣言しているのである。

 櫻井敬子・橋本博之『現代行政法』〔第2版〕15頁は「憲法のいう国民主権は、第一義的には、国政の運営が国民の名において行われることを意味」すると述べているが、これは説明としても弱く、理念に関する説明として十分なものとは言えない。

 最高決定権は、憲法の制定や改正に関して、その力を最大限に発揮すべきものとされている、と考えることができる。国民主権は、元々、憲法制定権力が国民に帰属することを意味する。憲法制定権力の発動により実定憲法が制定されると、合法性の原理となり、制度化された上で、権力性と正当性とに分解することとなる。ここで、国民主権の権力性とは、国の政治の在り方を最終的に決定する権力を国民自身が行使する、ということを意味する。また、国民主権の正当性とは、国家の権力行使を正当づける究極的な権威が国民に存する、ということを意味する。

 ここまで、国民主権原理について解説を行ってきたが、日本国憲法の前文において述べられているように、第15条第1項、第79条第2項、第95条および第96条の場合を除き、常に国民が直接的に国政に関する権限を行使することが予定されているのではなく、「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」することが前提とされている。すなわち、直接民主制ではなく、間接民主制(議会民主制)が基本原則となっているのである。

 もっとも、憲法の諸規定の解釈、そして歴史などをみれば明らかであるように、元々、国民主権原理は君主主権への対抗概念であると同時に、近代立憲国家においては市民階級の利益を維持するための機能を有していた。国民とは言うが、基本的に有産階級に限定されていたのである。その後、労働者階級の台頭などにより、文字通り国民全体(とくに貧困者層)の生存権を確保することが国家の命題となり、当初は治安対策の一環として社会保障などを充実させるなど、労働問題に取り組まざるをえなくなると、同質の市民のみを代表する議会による対処などが困難になり、行政権の拡大につながることになる。或る意味において、国民主権原理と現実との乖離はこの時点から始まったとも言える。

 また、日本の場合、イギリスやフランスなどと異なり、元々市民階級が存在せず〈あるいは士農工商のうちの商人階級が市民階級に相当すると考えることもできるが、おそらくは違うものであろう〉、明治維新も武士階級による王政復古であったため、市民あるいは商人の政治力は強化されなかった。イギリスやフランスなどにおいては議会の権限が強かったが、大日本帝国憲法は、天皇の権限を非常に強大なものとしており、その下で、議会に比して行政権の範囲は当初から広かった。そもそも、大日本帝国憲法が権力分立主義を採用すると言っても、三権は結局のところ天皇に帰属していた。議会の立法権は制約されていたし、天皇は別に立法権を有していた。しかも、帝国議会成立以前から超然内閣制(内閣制度そのものが憲法上の制度でなかったことに注意!)が存在し、当初から議会が官僚制に対抗しうるほどの力を持っていたかどうかは疑わしい。日本国憲法制定以後も、官僚制の実力はほとんど影響を受けず、むしろ拡大している。日本においては、元々、国民主権原理と現実との乖離が激しくなる要因が存在していたのである。これが社会の発展、そして国民主権原理の普及とともに強く自覚されるようになったと考えられるであろう。

 日本国憲法および地方自治法においては、元々、国政よりも地方自治の側面において直接民主制的な要素が多く盛り込まれている(地方自治法第12条、第13条および第74条以下を参照)。地方公共団体の長などに対する解職請求(リコール、国民罷免)、条例改廃請求権(イニシアティヴ、国民発案)、そして、原子力発電所設置や市町村合併などの重要問題において行われる住民投票制度(レファレンダム、国民表決)が行われるのは、単に直接民主制の現われというだけでなく、国民主権原理の具現化としての意味をも有する。  但し、現在の法制度において、国民投票や住民投票は、憲法改正を除き、投票の結果が立法者を拘束することが予定されていない。これは、イニシアティヴについても妥当する。理由としては、憲法自体が議会制民主主義を原則としており、直接民主制はむしろ例外的に位置づけられることがあげられる(例外と記すと誤りになるのかもしれないが)。

 

 3.権力分立主義

 論理的な帰結というよりは歴史的・経験的な事実による帰納的現象に属することとも思われるが、国民主権原理を生かすためには、第一に権力分立主義が採用されていなければならない。この権力分立主義も既に憲法学の講義などにおいて扱われているはずであるが、ここで述べておくこととする。

 日本国憲法には、権力分立を直接的に宣言する条文がない。しかし、第41条において「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」とされ、第65条において「行政権は、内閣に属する」とされ、さらに第76条第1項において「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」とされていることから、日本国憲法が権力分立主義を採用することは明らかである。すなわち、日本国憲法は、国家の統治権の作用を、立法、行政、司法に分割し、それらを相互に独立する別個の機関にそれぞれ担当させているのである。なお、権力分立主義は多分に歴史的な概念であることには、注意が必要である。

 日本国憲法の規定には示されていないが、権力分立主義は、国や時代、そして論者によって多少の違いがあるものの、元々、国家権力の諸作用を主に機能面から複数の国家機関に分配し、それぞれに担当させることによって均衡を保つという考え方である。出現形態が国によって異なるため、内容も異なるのであるが、一般的に認められる特質として4つが指摘される。

 (1)自由主義

 何故、単一不可分であるはずの国家権力を、三つの異なる国家機関に分割して担当させるのか。それは、一つに集中させると、権力の濫用を生じさせるからである。権力が集中すれば、国民の権利や自由はたやすく蹂躪される。このことは、歴史が証明してくれる。

 (2)消極主義

 権力を分割するだけでは不十分であるが、実際の問題として、三権は、時として相互に摩擦することがある。この摩擦を、権力分立主義は意図的に生じさせる、あるいは利用する。このことによって、一つの権力が暴走することを防ごうとするのである。

 (3)懐疑主義

 アメリカ合衆国の独立宣言の主たる起草者にして第3代大統領であったジェファーソン(Thomas Jefferson. 1743-1826)は、自由な政府が国民の猜疑によって生まれるという趣旨のことを述べている。そこには、政府に対する国民の信頼という考え方はない。こうした、権力に対する悲観主義が、権力分立主義の根底にあることは否定できない。言わば、政府性悪説である(とすると、国民性善説であるのか。これは不明である)。

 (4)政治的中立主義

 権力分立主義は、一般的に民主主義の前提と考えられている。しかし、実際には、立憲君主制という形態が存在することから明らかであるように、権力分立主義は君主制とも結合する。イギリスはこの典型であるし、現在でもヨーロッパに残る王国(オランダ、スウェーデン、ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルク、スペインなど)も、立憲君主制を採り、権力分立主義を採用するのである。逆に、君主主義を採らない国家(共和制)であっても、権力分立制を採用しない国家もある(ナチス期のドイツ、旧ソ連など)。結局、権力分立主義は、君主制を採るか民主制を採るかという単純なものではなく、人権保障を中核に据えるか否かの問題と関係し、人権保障を担保するための一手段であるといいうるのである。

 しかし、前述のように、19世紀後半から、第4階級とも言われる労働者階級の発展に伴い、それまで市民階級の利益を実現するための機関であった立法府が変質せざるをえなくなったことから、権力分立主義の変容がみられることとなる。階級対立を防ぐため、または解決するための機能は、従来の警察や国防のみでは到底カヴァーできるものではなく、それ以外の新しいものを必要とした。それまでの形式的平等から実質的平等への変化が期待されたのである。しかし、議会には、こうしたものを生み出すことができなくなった。20世紀、とくに第一次世界大戦後、上記の機能はさらに拡大し、積極国家・社会国家が要請されるようになった(これに対し、従来の近代立憲主義国家は、ドイツの社会主義者ラサール(Ferdinand Lassale. 1825-64)によって「夜警国家」と揶揄されたし、消極国家とも言われた)。そうすると、ますます議会は機能しなくなる。そこで、行政権の活動が必然的に多くなった。こうして、多くの国家において行政権の比重の拡大という現象が見られてきた。いわゆる行政国家現象であり、権力分立主義の変容とは、第一に行政国家への変化である。

 但し、既に述べたように、日本の場合は元々行政国家的な色彩が強く、本文に示した説明はそのままでは妥当しない。

 権力分立主義そのものは、ファシズム、ナチズム、共産主義などからの挑戦を受けつつも、維持されてきた。しかし、国家レヴェルであれ地方レヴェルであれ、立法権を担う議会の空洞化が、一般的に見られるようになったのである。

 行政権は、元来、法の執行機関と位置づけられていた。しかし、議会が機能不全に陥るならば、実際に政策を立てうるのは行政権である。何故なら、国家活動の範囲が大きくなることにつれて、特殊な専門的知識が多く要求されるし、迅速な、しかも組織的な活動を要求するが、このような事柄を議会に、さらには議員に要求しても、不可能とは言えないまでも困難であるからである。このことから、国の基本政策を形成し、決定するための実質的な権限を、行政権が行使するようになったのである。これは、官僚制の発展にもつながり、オンブズマン制度の成立原因にもなる。

 但し、スウェーデンの場合は憲法などによる特殊な事情があり、行政国家現象がオンブズマン制度を生んだ訳ではない。さしあたり、私のサイト「川崎高津公法研究室」に掲載している「川崎市市民オンブズマン条例についての考察」の第二章「オンブズマン制度についての一般的考察」を参照されたい。

 第二の変化は、政党国家現象とも呼ばれる。政党の成立原因は、国家によって異なるが、第一の変化において述べた階級対立が、後の政党に発展する場面は多い。元々の権力分立主義は、政党の存在を予定しておらず、むしろ敵対的な態度を見せたほどである。しかし、現実の政治制度に鑑みれば、良かれ悪しかれ政党を無視することはできない。そして、政府・与党と野党との対抗関係が、重要になる。政党は、立法権にも行政権にも関与するのである。

 第三の変化は、司法国家現象とも呼ばれ、人権保障の発展と関連がある。国家活動の範囲が拡大されれば、それだけ人権侵害の可能性が広がる。そして、多くの法案が、行政権によって作成され、立法権によって可決されるから、それだけ統制の必要性も大きくなる。行政法学に取り組むにあたり、最も注意を強く向けなければならない部分である。

 司法国家現象は、アメリカ合衆国の判例法として登場した違憲審査権の普及による司法権の拡大として捉えられる。アメリカの場合、違憲審査権は現在に至るまで憲法に規定されておらず、1803年のマーヴェリー対マディソン(Marbury v. Madison)事件判決、とくにマーシャル(John Marshall)首席裁判官の法廷意見により、判例法として確立された。しかし、アメリカ合衆国の実質的な憲法の一部をなしているのみならず、20世紀に入り、違憲審査権は幾つかの類型の下に発展し、少なからぬ国で確立されている。日本国憲法も、第81条により、最高裁判所を頂点とする裁判所が違憲審査権を行使することとされている。

 しかし、実際のところ、日本において違憲審査権はそれほど行使されておらず、憲法違反の疑いがある法律などについても、合憲の判断が下されている。日本の司法権は、行政権および立法権に対して、積極的に統制を加えることが少ないのである。多くの判決にうかがわれるように、これまでは行政権の第一次的判断権を尊重するという態度が見受けられ、それは過剰でないのかという疑念すら生じさせるものであった。これは、権力分立主義の誤解もしくは曲解に、または時代の変化への不対応に由来するものと思われる。そして、その原因の一つは、従来の行政法学や憲法学が生み出したものであるとも言いうるであろう。

 なお、権力分立主義は、元々、立法、司法、行政のそれぞれを担う国家機関相互の抑制・均衡を目指すものとして理解されていたが、最近では、例えば行政権内部における抑制・均衡の関係をも目指すものとする理解が生じている〈その例として、櫻井・橋本・『現代行政法』〔第2版〕20頁〉。これは、従来から内部監査などの形式で行われているが、行政監査といい、会計検査院による検査といい、その機能の有効性については議論がある。2001年には行政機関が行う政策の評価に関する法律が制定され、政策評価の指針や評価基準の策定、さらに第三者機関の設置などが行われている。

2025年7月14日月曜日

自治研かながわ月報の2025年4月号(No. 213。通算277号)のPDFデータが公開されました。

 4月下旬に公刊された「自治権かながわ月報」2005年4月号(No. 213。通算277号)に、私の「横浜市教育委員会裁判傍聴動員事件に関する住民監査請求について」が掲載されていることは、既にお知らせしております。

 公益財団法人神奈川県地方自治研究センターのサイトをみたら、同号のPDFデータが公開されていました。

 御一読をいただければ幸いです。

2025年7月10日木曜日

第2回 行政法とはいかなる法か

 1.公法と私法との区別

 それでは、行政法とは何か。

 行政法を「行政に関する法」、より詳しく言うならば「行政の組織・作用・統制に関する法である」と定義することも可能である。あれこれと難しいことを考えるのでなければ、定義としてはこれで充分であろう(それでも「難しい言葉」が入っているが)。

 しかし、例えば県庁において事務用品・備品を購入する際に、(会計法などによる規制は別として)民事法、とくに民法による規律が妥当すべきである。道路や学校校舎などの建設についても、やはり民事法の請負契約が基本的に妥当すべきである。このような場合にまで、行政法という必要はない。

 そこで、日本の行政法学は、伝統的に、公法と私法の二分論を採用し、行政法を公法に位置づけた上で、行政法は「行政の組織及び作用並びにその統制に関する国内公法」であると定義してきた〈田中二郎『新版行政法上巻』〔全訂第二版〕(1976年、弘文堂)24頁〉

 まず、行政法は、国内における法であり、条約などの国際法とは区別される。そして「行政の組織及び作用並びにその統制に関する」とされるのは、同じ国内公法である憲法と区別するためである。憲法は、国家を中心にし(従って、立法および司法を含む)、国家の組織および国家の作用に関する根本的な事柄を定めているのである。そして、行政法が公法とされるのは、民法や商法などの私法とは異なる、特殊な、そして固有の法であることを主張するためである。

 もっとも、公法と私法との区別については、何を基準にするかによって見解が分かれ、両者の区別は相対的である。公益・私益を区別の基準とする説(利益説)もあるが、これだけでは区別できない。また、少なくとも一方の当事者が国または(地方)公共団体である法律関係を規律する法が公法であり、私人間の法的関係を規律する法が私法であるとする説(主体説)がある。これは、説明としてはわかりやすいが、国または(地方)公共団体が私人間の法的関係と同じ性質の法的関係を私人と結ぶときには私法であるとしなければならないし、かえって区別の規準が曖昧になるおそれがある。

 そこで、日本の行政法学は、ドイツの行政法学の影響を強く受けて、国家と私人との権力関係を規定する法が公法であり、(私人間の)対等な関係を規定する法が私法であるとする説(権力説)を採用する。

 しかし、実際に、何が公法であり、私法であるかを判断することは難しいし、実益があるかも問題である。公法は基本的に権力関係を規律する法であり、私法は対等関係を規律する法であるというのであるが、実際には、権力関係において私法の規定が適用される場面が存在する。具体的な例をみることとしよう。

 

 2.民法第177条は、行政法関係に適用されるのか

 民法第177条は、不動産の物権変動における対抗要件としての登記に関する規定である。ここでは、基本的に対等の当事者同士が或る不動産の所有権について争っている場合に、自己の所有権を主張し、それを裏付けるようなものとして登記が必要であるとされている。それでは、行政による権力的行為については、やはり登記という対抗要件が必要になるのであろうか。

 (1)最三小判昭和31年4月24日民集10巻4号417頁

 事案:原告が訴外A社から土地を購入し、代金を支払った上に、土地を自己の所有物とする財産税の申告をU税務署長に行ったが、所有権移転登記手続を済ませていなかった。A社が租税を滞納していたことがきっかけで、Y1(税務署長)はこの土地をA社名義のものとして差し押さえ、登記名義も変更した上で、Y2を競落人とする公売処分を執行した。そして土地の登記名義もY2になった。Xは、Y1に対しては一連の処分の無効確認を求め、Y2に対しては所有権移転登記の抹消登記手続を求める訴えを提起した。一審判決(富山地判昭和28年5月30日行集4巻5号1136頁)はXの請求を棄却したが、控訴審判決(名古屋高金沢支判昭和28年12月25日行集4巻12号3127頁)はXの控訴を容れて請求を認容したため、Y1およびY2が上告した。最高裁判所第三小法廷は、以下のように述べて破棄差戻しの判断を示した。

 判旨:「国税滞納処分においては、国は、その有する租税債権につき、自ら執行機関として、強制執行の方法により、その満足を得ようとするものであつて、納者の財産を差し押えた国の地位は、あたかも、民事訴訟法上の強制執行における差押債権者の地位に類するものであり、租税債権がたまたま公法上のものであることは、この関係において、国が一般私法上の債権者より不利益の取扱を受ける理由となるものではない。それ故、滞納処分による差押の関係においても、民法177条の適用があるものと解するのが相当である」。その上で、「国が登記の欠缺を主張するにつき正当の利益を有する第三者に当るかどうかが問題となるが、ここに、第三者が登記の欠缺を主張するにつき正当な利益を有しない場合とは、当該第三者に、不動産登記法4条、5条により登記の欠缺を主張することの許されない事由がある場合、その他これに類するような、登記の欠缺を主張することが信義に反すると認められる事由がある場合に限るものと解すべきである」(強調は引用者による。以下、毎回における判例からの引用について同じ)。

 なお、この判決には小林俊三裁判官の反対意見が付されている。同裁判官は「国といえども、ひと度租税債権者として納税人と私法の支配する関係に入つた以上、その特殊の性質から出て来る事項を除いては、法律の解釈適用についてすべて他の当事者と同等の地位に立つべきものである」と述べている。

 民法第177条の適用という点からすれば、民法において先取特権が規定されており、国税徴収法第19条ないし第21条、同第23条、同第26条などにおいて先取特権や質権などとの調整に関する規定が存在すること、地方税法第14条の13、同第14条の14、同第14条の17などにも国税徴収法と同種の規定が存在することから考えてみても、前掲最判昭和31年4月24日の論旨は妥当である。

 (2)最一小判昭和35年3月31日民集14巻4号663頁(Ⅰ-11)

 事案:前掲最三小判昭和31年4月24日により差し戻された事件である。差戻控訴審判決(名古屋高判昭和32年6月8日民集14巻4号708頁)はXの控訴を棄却したので、Xが上告した。最高裁判所第一小法廷はXの上告を認容し、差戻控訴審判決を破棄した。

 判旨:「本件のような場合国が上告人の本件土地所有権の取得に対し登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する第三者に該当しないという為めには財産税の徴収に際し前控訴審判決の認定したような経緯、詳言すれば、上告人は前示差押登記前である昭和21年2月15日魚津税務署長に対し本件土地を自己の所有として申告し、同署長は該申告を受理して、上告人から財産税を徴税したという事実だけでは足りず、更に上告人において本件土地が所轄税務署長から上告人の所有として取り扱わるべきことを強く期待することがもっともと思われるような特段な事情がなければならない」。本件において認定された事実などを勘案すれば、所轄税務署長が本件土地をXの所有物として取り扱うべきであることをXが「強く期待することが、もっともと思われる事情があったものと認めるを相当と考え」られるのであり、Y1はXの「本件土地の所有権取得に対し登記の欠缺を主張するについて正当の利益を有する第三者に該当しないものと認むべき」である。

 (3)最大判昭和28年2月18日民集7巻2号157頁

 事案:Xは訴外Aから農地を購入していたが、所有権移転登記手続を済ませていなかった。農地改革の折、別府市B地区農地委員会は、農地の所有者は登記名義人であり、かつ不在地主のAであるとする認定を行い、買収計画を定めた。Xは、別府市B地区農地委員会に対する異議申立て、および大分県農地委員会への訴願を行ったが、Xの請求は棄却された。そこで、Xは、大分県農地委員会の裁決の取消しを求めて訴えを提起した。一審判決(大分地方裁判所、判決日不明、民集7巻2号176頁参照)および控訴審判決(福岡高判昭和25年10月9日民集7巻2号179頁参照)はXの請求を認容したので、大分県農地委員会が上告した。

 判旨:最高裁判所大法廷は、農地買収処分が権力的な手段による強制的な買い上げであり、民法上の売買とは本質を異にするから、自作農創設特別措置法による農地買収処分に民法第177条の適用は認められないという旨を述べ、上告を棄却した。これに対しては、真野裁判官の補足意見、霜山裁判官の少数意見、および井上裁判官・岩松裁判官の少数意見がある。

 〈なお、最二小判昭和41年12月23日民集20巻10号2186頁などは前掲最大判昭和28年2月18日と反対の趣旨を述べている。〉

 ここで、公法と私法との区別が念頭に置かれていたのか否かについて疑問が生じるが、少なくとも、最高裁判所の判例においては、権力関係であるから公法の分野の事件であり、私法は適用されない、というような思考方法を採っていないことは明らかである。結局は、事案の性質、法律の趣旨などに照らし合わせて考えなければならないであろう。

 

 3.消滅時効(会計法第30条と民法第167条第1項など)

 (1)最三小判昭和50年2月25日民集29巻2号143頁

 事案:訴外Aは陸上自衛隊員として某駐屯地に勤務していたが、昭和40年の某日、駐屯地内の武器隊車両整備工場において、訴外Bが運転していた大型自動車に轢かれ、即死した。Aの両親であるXらは、国家公務員災害補償法第15条による補償金として76万円を受領していたが、自動車損害賠償責任保険法による強制保険金と比較して補償額が低いことなどから、同法第3条に基づく損害賠償請求訴訟を提起した。一審判決(東京地判昭和46年10月30日民集29巻2号160頁)はXらの請求を棄却したため、XらはY(国)の安全配慮義務違反による債務不履行責任の主張を追加して控訴したが、控訴審判決(東京高判昭和48年1月31日訟務月報19巻3号37頁)は控訴を棄却した。Xらが上告し、最高裁判所第三小法廷は控訴審判決を破棄し、東京高等裁判所に事件を差し戻した。

 判旨:「会計法30条が金銭の給付を目的とする国の権利及び国に対する権利につき5年の消滅時効期間を定めたのは、国の権利義務を早期に決済する必要があるなど主として行政上の便宜を考慮したことに基づくものであるから、同条の5年の消滅時効期間の定めは、右のような行政上の便宜を考慮する必要がある金銭債権であつて他に時効期間につき特別の規定のないものについて適用されるものと解すべきである。そして、国が、公務員に対する安全配慮義務を懈怠し違法に公務員の生命、健康等を侵害して損害を受けた公務員に対し損害賠償の義務を負う事態は、その発生が偶発的であつて多発するものとはいえないから、右義務につき前記のような行政上の便宜を考慮する必要はなく、また、国が義務者であつても、被害者に損害を賠償すべき関係は、公平の理念に基づき被害者に生じた損害の公正な填補を目的とする点において、私人相互間における損害賠償の関係とその目的性質を異にするものではないから、国に対する右損害賠償請求権の消滅時効期間は、会計法30条所定の5年と解すべきではなく、民法167条1項により10年と解すべきである。」

 (2)最二小判平成17年11月21日民集59巻9号2611頁

 事案:平成11年の某日、Yの次男Aは自動車を運転していたが、松戸市内で赤信号を見落として某交差点に進入した結果、横断中のBに衝突して転倒させ、重傷を負わせるという事故を起こした。Bは松戸市立病院に搬送され、入院治療を受けた。Bの診療費等の負担に関してX(松戸市)に交付された入院証書の連帯保証人の欄には、Yの実印による印影が示されていた。Yは、診療費等の負担についてXとの間で連帯保証契約を結んでいないと主張し、また、仮に連帯保証契約を結んでいたとしても、本件の訴状がYに送達されたのが平成15年8月30日であるから、それより3年以上前に発生した診療費請求権は時効消滅するとして、消滅時効の援用を主張した。これに対し、Xは、松戸市立病院が地方自治法第244条第1項にいう公の施設に該当することなどから、消滅時効期間は同法第236条第1項に規定される5年と解すべきであると主張した。一審判決(千葉地松戸支部平成16年8月19日民集59巻9号2614頁)はXの主張を認めたが、控訴審判決(東京高判平成17年1月19日民集59巻9号2620頁)は、前掲最一小判昭和59年12月13日を参照しつつ「公立病院の施設自体は,中核をなす診療行為に付随する利用関係にすぎないのであって,公立病院と病院利用者との間の法律関係は,基本的には私立病院と利用者の間の法律関係と異なるところはないから,その使用料は私法上の債権と解すべきである」として、Xの請求の大部分を棄却する判決を下した(3年の消滅時効にかからない部分のみ請求を認容した)。Xが上告したが、最高裁判所第二小法廷は上告を棄却した。

 判旨:「公立病院において行われる診療は、私立病院において行われる診療と本質的な差異はなく、その診療に関する法律関係は本質上私法関係」であり、「公立病院の診療に関する債権の消滅時効期間は、地方自治法236条1項所定の5年ではなく、民法170条1号により3年と解すべきである」。

 注意:平成29年法律第44号により、民法第170条から第174条までは削除されている。したがって、あくまでも事案の性質がいかなるものかという点について注意すべきである。

 

 4.公営住宅の利用関係

 (1)最一小判昭和59年12月13日民集38巻12号1411頁

 事案:被告Yは昭和30年代から某都営住宅に居住していた。公営住宅法第21条の2、同施行令第6条の2など、および東京都営住宅条例第19条の3(いずれも当時)によれば、都営住宅を引き続き3年以上使用しており、かつ、一定の月額収入を超える者は割増賃料を支払う義務を負っており、Yはこれに該当していたが、割増賃料を一切支払わなかった。また、Yは、東京都の許可を得ることなく増築を行った。東京都は、これらが住宅の明渡事由に該当するとして、使用許可を取り消し(実際には撤回である)、割増賃料相当額の支払、増築した建物の収去、および土地の明渡を求めて出訴した。

 一審判決(東京地判昭和54年5月30日下民集30巻5~8号275頁)は、東京都の請求のうち、割増賃料相当分の支払に関する請求のみを認容した。東京都が控訴し(請求の一部を変更している)、控訴審判決(東京高判昭和57年6月28日高民集35巻2号159頁)は東京都の敗訴部分を取消し、Yに土地の明渡を命じた。Yが上告したが、最高裁判所第一小法廷は、Yの上告を棄却した。

 判旨:まず、最高裁判所第一小法廷は、公営住宅法および東京都営住宅条例の規定の趣旨から「公営住宅の使用関係には、公の営造物の利用関係として公法的な一面があることは否定しえない」としつつも、「入居者が右使用許可を受けて事業主体と入居者との間に公営住宅の使用関係が設定されたのちにおいては、前示のような法及び条例による規制はあつても、事業主体と入居者との間の法律関係は、基本的には私人間の家屋賃貸借関係と異なるところはなく、(中略)公営住宅の使用関係については、公営住宅法及びこれに基づく条例が特別法として民法及び借家法に優先して適用されるが、法及び条例に特別の定めがない限り、原則として一般法である民法及び借家法の適用があり、その契約関係を規律するについては、信頼関係の法理の適用があるものと解すべきである」と述べる(強調は引用者による)。その上で、Yによる増築に関して前記東京高判が信頼関係の法理が適用されないとした点を誤りとしつつも、増築の規模が大きかったなどの理由により、結論として前掲東京高判を支持した。

 (2)最一小判平成2年10月18日民集44巻7号1021頁

 事案:訴外Aは、昭和20年代に某都営住宅に入居し、原告の東京都に賃料を払っていたが、某日に死亡した。その日以降、Aの孫であるY1は、Aから代襲相続によってこの都営住宅の使用権を相続したとして、占有を続けていた。また、Y1の甥であるY2は、Y1から承諾を受けたとしてこの都営住宅に同居していた。東京都は、Y1が東京都営住宅条例第14条の2(現在は削除されている)に規定される使用権の承継の許可を得ていないとして、建物の明渡を請求した。

 一審判決(東京地判昭和63年12月22日民集44巻7号1026頁)は東京都の請求を認めたのでY1およびY2が控訴したが、控訴審判決(東京高判平成元年9月18日民集44巻7号1033頁)は控訴を棄却した。

 判旨:最高裁判所第一小法廷は、次のように述べて、Y1およびY2の上告を棄却した。

 「公営住宅法は、住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で住宅を賃貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とするものであって(1条)、そのために、公営住宅の入居者を一定の条件を具備するものに限定し(17条)、政令の定める選考基準に従い、条例で定めるところにより、公正な方法で選考して、入居者を決定しなければならないものとした上(18条)、さらに入居者の収入が政令で定める基準を超えることになった場合には、その入居年数に応じて、入居者については、当該公営住宅を明け渡すように努めなければならない旨(21条の2第1項)、事業主体の長については、当該公営住宅の明渡しを請求することができる旨(21条の3第1項)を規定しているのである」から、「入居者が死亡した場合には、その相続人が公営住宅を使用する権利を当然に承継すると解する余地はないというべきである」。

 ▲既に、公法は国家と私人との権力関係を規定する法であると記したが、実は、公法は管理関係というものをも規律する(この場合は伝来的公法関係とも称される)。権力的な関係ではないが、契約締結の自由などが存在しない、または著しい制約を受けているという点において私法とは異なる関係のことで、主に国民の生存権の確保などを目的とするものである。

 

 5.契約の当事者の一方が行政法規に違反している場合の、私法上の効力の有無

 公法と私法との関係ということでは、「行政法規に違反する行為は、私法上、効力を有するのか?」という問題も重要である。よく引き合いに出される例として白タクの話がある。或る駅でタクシーを待っていたら、無許可のタクシー(白タク)がやってきて、それに乗ったところ、通常のタクシーより高い料金を支払わされた、とする。ここで、権利濫用(民法第1条第3項)や公序良俗(同第90条)などを問わないとすると、白タクに乗車して目的地まで行ってもらうという契約は有効なのであろうか。

 ここで、判例による考え方を示しておくと、公共の安全や秩序の維持を目的とする警察取締法規に違反した行為の場合は、私法上の効力は否定されない。これに対し、契約や取引の自由を規制することを目的とする統制法規に違反した行為の場合は、私法上の効力は否定される。

 (1)最二小判昭和35年3月18日民集14巻4号483頁

 X社は、A社(食品衛生法による許可を受けている)の代表取締役であるY(食品衛生法による許可を受けていない)に対して精肉を売り渡した。しかし、Yは内金を支払ってはいたが、代金のうちの残りの部分を払っていなかった。Xは、その残りの部分と遅延損害金の支払いを求めた。これに対し、Yは、自らが食品衛生法による許可を受けていないこと、取引の当事者はXとAであってYではないことなどを理由として、売買契約が無効であると主張したが、最高裁判所第二小法廷は、食品衛生法を警察取締法規と理解した上で、この法律による許可を受けていない当事者との取引は、私法上の効力を否定されないと判示した。

 (2)最二小判昭和30年9月30日民集9巻10号1498頁

 Xは煮干し鰯の売買について、当時の臨時物資需給調整法などによる資格を得ていなかった。XはYに煮干し鰯千貫を売り渡し、引渡しも済ませたが、Yが代金を支払わなかったので、Xが訴えを提起した。最高裁判所第二小法廷は、臨時物資需給調整法などを経済統制法規と理解した上で、この法律に定められた登録などを行っていない無資格者の取引は、私法上の契約としても無効である、と述べた。

 しかし、最近では、警察取締法規と統制法規との区別を絶対視しないという傾向がある。すなわち、警察取締法規に違反する行為が常に私法上有効であるとは限らないし、経済統制法規に違反する行為が常に私法上無効であるとも限らない。

 

 6.公法の規定により認められる(または禁止されていない)行為が私法に違反する場合の、私法上の効力の有無

 上記とは逆に、公法の規定において認められる、または禁止されていない行為が私法に違反する場合に、私法上の効力の有無が問題となる。例えば、建築基準法第63条に基づき、準防火地域において耐火構造の外壁による建築物が建てられたが、その建築物が民法第234条に違反する(境界線から外壁まで50cmも離れていなかった)という場合、その効力はどのようになるのであろうか。この問題については、次の二つの考え方が成り立ちうる。

  ①建築基準法第63条は民法第234条に対する特別法であるから、相隣者の同意などがなくとも、建築基準法第63条に規定される要件を満たせば、民法上も建築は許される。民法第234条が木造建築物しかなかった頃に制定されたこと、建築基準法第63条は一定の要件の下で許容する規定の形であり、規制の形をとっていないこと、建築基準法に接境建築を禁止する規定が存在しないことなどが、理由としてあげられている。

  ②建築基準法第63条は民法第234条に対する特別法ではない。従って、建築基準法第63条と民法第234条とは性質が全く異なる。建築基準法は行政法規であり、主に建築主事による建築確認の基準という意味を有するのに対し、民法は私人間の権利関係を調整するための基準という意味を持つ。そのため、前者によって許される建物であっても、後者に違反してはならない。民法第234条の目的は、隣地建物の建築や修繕の便宜、延焼の防止、日照や通風や採光などの環境利益の確保である。また、①の考え方をとると、結局、建物の建築や修繕に際して早い者勝ちということになる。

  この問題については、次の判決が参考になる。

  ●最三小判平成元年9月19日民集43巻8号955頁

 事案:Yは、大阪市内の商業地域に土地を有していた。この地域は準防火地域(都市計画法第8条第1項第5号)であったため、Yは自己の所有地上において、外壁が耐火構造となっている建造物の建築に着手した。これに対し、隣地を所有するXは、Yの建造物が境界線から50センチメートル以上の距離を置いておらず、民法第234条に違反するとして、建物の一部収去および損害賠償などを求めて出訴した。これに対し、Yは上記①の見解を採って抗弁した。

 一審判決(大阪地判昭和57年8月30日判時1071号95頁)は、Yが「建築基準法65条との関係においては、本件(一)建物の外壁を隣地境界線に接して建築することができる」としつつ〈現行の建築基準法においては第63条である〉、「民法234条1項と建築基準法65条との関係についてみると、建築基準法65条は防火という公共的観点から定められたものでありながら、同時に私人間の生活関係の規律に密着するものであり、一方、民法234条1項の規定は、接境建築の建物によって、隣地の採光、通風、隣地上の建物の築造、修繕の便宜、その他利用上の障害を与えないという相隣土地所有権者相互の土地利用関係を調整するために定められたものである。そうだとすれば、建築基準法により防火地域又は準防火地域として指定を受けた市街地内にある建築物で、その外壁が耐火構造のものについて、それだけで直ちに民法234条1項の適用が排除されるものではなく、土地の高度、効率的利用のため、民法234条1項が保護する前記相隣者間の生活利益を犠牲にしても、なお接境建築を許すだけの合理的理由、例えば相隣者間の合意とか、民法236条の慣習等がある場合に限ってはじめて、建築基準法六五条が民法234条1項に優先適用されるものと解するのが相当である」と述べ、本件については「接境建築を許すだけの合理的理由」がないと判断した。

 Yは控訴したが、控訴審判決(大阪高判昭和58年9月6日民集43巻8号982頁)は控訴を棄却した。そのため、Yが上告した。

 判旨:最高裁判所第三小法廷(多数意見)は、次のように述べて上告を認容し、Xの請求を棄却した(上記①の見解を採ったこととなる)。

 「建築基準法65条は、防火地域又は準防火地域内にある外壁が耐火構造の建築物について、その外壁を隣地境界線に接して設けることができる旨規定しているが、これは、同条所定の建築物に限り、その建築については民法234条1項の規定の適用が排除される旨を定めたものと解するのが相当である。けだし、建築基準法六五条は、耐火構造の外壁を設けることが防火上望ましいという見地や、防火地域又は準防火地域における土地の合理的ないし効率的な利用を図るという見地に基づき、相隣関係を規律する趣旨で、右各地域内にある建物で外壁が耐火構造のものについては、その外壁を隣地境界線に接して設けることができることを規定したものと解すべきであって、このことは、次の点からしても明らかである。すなわち、第一に、同条の文言上、それ自体として、同法6条1項に基づく確認申請の審査に際しよるべき基準を定めたものと理解することはできないこと、第二に、建築基準法及びその他の法令において、右確認申請の審査基準として、防火地域又は準防火地域における建築物の外壁と隣地境界線との間の距離につき直接規制している原則的な規定はない(建築基準法において、隣地境界線と建築物の外壁との間の距離につき直接規制しているものとしては、第一種住居専用地域内における外壁の後退距離の限定を定めている54条の規定があるにとどまる。)から、建築基準法六五条を、何らかの建築確認申請の審査基準を緩和する趣旨の例外規定と理解することはできないことからすると、同条は、建物を建築するには、境界線から50センチメートル以上の距離を置くべきものとしている民法234条1項の特則を定めたものと解して初めて、その規定の意味を見いだしうるからである。」

 これに対し、伊藤正己裁判官は「建築基準法は、建築物の敷地、構造、設備及び用途について公益の観点から最低の基準を定めているのであり(同法1条)、公法上の見地から規制を加えているのであって、法律全体としてみれば、私人間の権利を調整しているわけではない」と述べ、多数意見に反対した。

 

 7.公法と私法の区別についての小括

 以上のように、公法と私法という分類には、公法の適用範囲とされる事案について私法の適用があるのかという問題があり、適用される場面が少なからず存在するということになると、行政法は公法であるという主張の妥当性が疑わしくなってくる。そのため、最近では、公法と私法との分類を否定する見解が勢力を増しており、とくに、戦後生まれの世代による学説の多くが、こうした説を採るように思われる(定着したという評価も多く見られる)。少なくとも、かつてのように公法・私法二分論が強調されることは少なくなっている。

 例えば、公法上の不当利得というような観念は、無用のものである、公権論についても同様である、というような説明がなされている。行政事件訴訟法には、公法上の当事者訴訟という訴訟類型が規定されているが、制度的・手続的に民事訴訟と大差なく、利用件数も少ない。私も、公法・私法二分論には疑問を抱いているが、それでは行政法の特質とは何かという問題に、公法・私法二分論批判説が十分に答えているとも思えない。

 たしかに、公法・私法二分論によって全てを割り切ることはできない。行政法学においても、従来からの行政行為論などとともに、行政契約論、その他、私法的行為に関する議論がなされざるをえなくなっている。

 しかし、行政法において、民法や商法などと異なる部分が存在することは、否定のしようがないところであろう。少なくとも、行政法は、民法などの私法と異なることが多い。例えば、自動車の運転免許証の交付を、私法における契約などと同じように考えることはできない。対等な当事者間における関係は、運転免許証の交付という場面においては見られない。むしろ、自動車の運転は、本来ならば国民の権利・自由に属する行為とも考えられるが、安全・秩序の維持という観点から、法律によって一般的に禁止し、一定の要件を充たす場合に、その禁止を行政が運転免許証の付与によって解除するのであり、この点において行政側が国民に優越する位置に立っているのである(行政法学における許可)。このように、行政法は、それなりに民法などとは異なる法なのである、と言うことはできる。

 

 8.行政法の基本類型

 この回の最後に、行政法の基本類型をみておく。これは行政法学の体系上のものであり、多くの行政法学の教科書がこれに従っているものである。

 (1)行政組織法(機構法)

 法律制度の枠組自体を規律する法が組織法(機構法)である。例として、国家行政組織法、裁判所法をあげることができる。また、憲法も、国家の基本組織を定めるという意味において、これに含まれる。地方自治法も、組織法の一つである。

 行政組織とは、行政主体が行政を行うために設置した組織である。行政組織法は、国・公共団体などの行政主体の組織(単位たる行政機関の設置・廃止・構成)・権限、機関相互間の関係に関する規律、国・公共団体などの行政主体相互間の規律(行政主体相互間の事務の分担)を内容とする。また、厳密に言うならば行政組織に関する法とは言い難い部分もあるが、公務員に関する法も、行政組織法の一部である。

 なお、行政法学においては、行政活動を行うものと行政活動の相手方との法的関係を中心に据える。その場合の行政活動を行う側が行政主体である(行政体と表現する論者もある)。国、地方公共団体の他、行政事務を行う公法人(日本銀行など)、法律などに基づいて組合員のために特定の事業を行う公法人(土地改良区、土地区画整理組合など)も行政主体である。但し、行政主体であるか否かの判断が困難な場合もある。民生委員や行政相談委員は、公の活動を行うが行政主体でない。逆に、日本放送協会は、放送法などを通じて国の監督権を受ける(予算も国会の決議の対象となる)が公の活動を行うとは言えない。

 (2)行政作用法

 一般的に、社会において行われる個々の行為を規律する法が行為法(作用法)である。行政作用法は、国・公共団体などの行政主体と私人との間の、公法上の法律関係に関する規律を内容とし、行政が私人に対していかなる行為をなしうるか・なすべきか・なさざるべきかを規律する。

 行政作用法は、総論と各論とに分けられる。一般的に言われる行政法総論は、行政作用法総論を中心とする(論者によって、また、大学のカリキュラムによって範囲に違いがあり、行政法総論に行政救済法や行政組織法総論が入ることもある)。この講義ノートは、行政作用法のうち、総論を扱う。

 行政作用法総論は、各行政分野において用いられる作用または手段の共通性に着目し、これらを取り上げて研究をなそうとする分野である。行政裁量、行政行為、行政立法などを扱う。これに対し、行政作用法各論は、各行政分野(警察行政、財務行政、社会保障行政など)毎に行政作用を扱い、研究の対象とするものである。一般には行政法各論と言われる(実際には行政組織法各論というべき部分も入ってくる)。現在では独立した分野として扱われる租税法や教育法なども、元来は行政作用法各論として扱われていた。

 (3)行政救済法

 行政活動は、憲法・法律・条例に従って適切に行われなければならない。しかし、常に適法かつ正当に行われるとは限らない。違法または不当な行政活動によって国民の権利・自由が侵害されたり、侵害されるおそれが存在することもある。そこで、このような行政活動から国民の権利・利益を救済し、行政活動を統制するために作られるのが行政救済法である。行政救済法は、主に行政活動の事後的な統制に関する法である(国家賠償法、行政不服審査法、行政事件訴訟法など)。

 (4)行政手続法

 行政活動の事前的な統制に関する法である。行政行為がなされる段階を基準とすれば、事前的な段階における行政手続と事後的な段階における行政手続とが考えられるが、一般的には事前的な段階における行政手続を指し、行政手続法もその段階を規律するものと理解される。従来、行政法の基本類型の中に行政手続法は含められていなかったが、行政手続法は純粋な行政作用法と言い難いし、行政救済法とも異なる。そのため、ここでは、行政手続法を一つの基本類型としておく。

 

 ▲第7版における履歴:2020年4月15日掲載。

 ▲第6版における履歴:2015年9月22日掲載。

              2017年10月26日修正。

              2017年12月20日修正。

地方分権の観点から、市町村合併と地方税制との関連を見直す

 はじめに:これは、某雑誌からの依頼を受けて執筆したものの、掲載されなかった論文です。その理由は私自身にあるのですが、このまま埋もれさせてしまうのもどうかと思い、約15年半の歳月を経てここに公表します。   1.地方自治体の広域化という政策の是非を問い続ける必要性  2009年8...